唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

最高の時をともに過ごし、最悪のものが残される。

 さーて、しばらくは余裕を持って『オタクはすでに死んでいる』を読み込んでおこうかな、たまには趣味に走りたいし…と思ってたら、また新たなネタが。…もしかして俺は唐沢俊一を検証するために生きているのかと。嫌な人生だなあ。

  discussao さんに山田五郎20世紀少年白書』(世界文化社)に唐沢俊一岡田斗司夫が登場していると聞いたので、都心へ出たついでに買ってみた。 discussao さん、情報ありがとうございます。
 そうしたらこんなことが書いてある。P.137より。

唐沢 僕だって、漫画やアニメや特撮から卒業するのがちょっと遅れてるだけで、大学に入れば卒業するだろうと思ってましたからね。叔父の関係で演芸や演劇も好きでしたし、小説なんかも書いてみたかったし、出版の分野にも首を突っ込んでみたかった。だから1年浪人して『ヤマト』ファンクラブの基礎固めをし終えたところで、東京に出たんです。
山田 それで入られた大学が、意外といっては失礼ですが、青学とは。
唐沢 どこでもよかったんですよ。東京に出た目的のひとつは、通称「アニドウ」っていう日本初のアニメーション同好会に入ることで、大学は口実にすぎなかった。だから、阿佐ヶ谷の下宿屋さんに入ったその日に、紀伊國屋ホールでやっていた「アニドウ」の上映会に駆けつけて……。

『トンデモ創世記』(扶桑社文庫)での青学入学のいきさつ。P.51〜52より。

唐沢● (前略)それで、大学入って「アニドウ」って会に入会して、海外アニメに興味が向いたんですね。それで、日本のアニメはもういいやと思ったけど、結局戻ってくる感じになりましたね。
 はじめの映画館の辺りの話に戻すと、とにかく東京の大学に入らなければならないって思ったんですよ。理由は神田の古本屋街があるから。札幌だと北海道大学の近くしかなかったですね。一つの通りに七、八軒あったくらいかな。で、とにかく「神田、神田」って感じだった。
(中略)
唐沢● 本を探すって自分探しみたいなもんですね。とにかく神田に行ける状況になろうって。最初は中央大学に行こうと思ったの、神田に近いから。あの頃まだ神田にあったんですよ。なんで明治じゃなかったのかな。たぶん校舎がいろいろ散らばっていたからでしょうね。で、中央大学にしようと思ったら、移転するって話が出たんです。
志水● それで決めたんですか?
唐沢● いろいろあって、青山学院に入ったんですけども、すでに半蔵門線は開通してたかな?
志水● ギリギリですね。
唐沢● そうすると半蔵門線で一本じゃないですか、神保町まで。青山学院は最寄り駅が渋谷だし。
志水● そうですね。

…話がだいぶ違う。20世紀少年白書』には古本の話はまったく出て来ない。『トンデモ創世記』の話がおかしいというのは「トンデモない一行知識の世界2」と当ブログの2月9日の記事でも取り上げたが、どうも『20世紀少年白書』の話の方が本当っぽい。『トンデモ創世記』でどうして青学と古本を関係させようとしたのか本当に謎。あと「日本のアニメはもういいや」というのは面白い。そういう気持ちがあったから「ガンダム論争」で「海外最高!日本ダメ!」となったわけだね。ちなみに、『トンデモ創世記』には阿佐ヶ谷の下宿から高円寺の「芳雅堂書店」(店主は出久根達郎氏)に通った話も載っている。神田以外の古本屋にも行ってたんだね。よかったよかった。しかし、『20世紀少年白書』の話の方が本当っぽいとはいえ、「1年浪人して『ヤマト』ファンクラブの基礎固めをし終えた」というのはどうなんだろう。その後発展したのか?山田五郎が唐沢が青学出身というのに驚いているのは面白いけど。やっぱりイメージと合ってないよねえ。とりあえず、自分の過去の話をするときにはウソをつくにしてもよく内容をまとめておいてほしいと思う。本によって話すことが違うんじゃ困るよ。『メメント』みたいに全身に書いておいたらいいかも。

 『20世紀少年白書』を続けて読んでいると、こんなことが書いてある。P.139より。

唐沢 (前略)青学の方も留年もせず3年まで進んでいたんですけど、弟が漫画家になるから薬局は継がないと言い出して。だったらまだ進路の決まってない長男のお前が継げと、親父に言われて。

 留年もせず3年まで進んでいた、ということは、唐沢俊一は1年浪人しているから「ぴあ」に初投稿した1980年12月の時点で唐沢俊一は青学の3年生だったことになる。で、翌81年8月まで「ガンダム論争」に参加するわけだ。まあ、その辺のことはさすがに知っているので事実を再確認したり「ここは調べないとなあ」と思いつつ読み終わったのだが、唐沢のプロフィールを確認したところで思わず叫びそうになってしまった。

1958年5月22日、北海道生まれ。作家、コラムニスト、カルト物件評論家。青山学院大学文学部、東北薬科大学を共に中退(以下略)。

…え、えええ〜っ!?
唐沢のプロフィールで「青学中退」となっているのをはじめて見たぞ!どうなってるんだ?というわけで家にある唐沢の本を全部ひっくりかえしてプロフィールを調べてみた(「俺、いつのまにこんなに集めていたんだろう」とだいぶヘコむ)。その結果わかったのは、ほとんどのプロフィールでは学歴が書かれていないということ。早川書房から出ている本には「青山学院大学、東北薬科大学在学中から〜」とはあるが、卒業したかどうかは書かれていない。自分が確認できたかぎりで青学を卒業したとプロフィールで書かれているのは以下の本だけである。

『トンデモ美少年の世界』=青山学院大学
『実録!サイコさんからの手紙』=青山学院大学
『B級学(マンガ編)』=青山学院大学
『唐沢先生の雑学授業』=青山学院大学文学部卒業
BSアニメ夜話 ルパン三世カリオストロの城』=青山学院大学文学部卒業
 全部で5つしかないのだ。…いや、自分はこの一事をもって唐沢俊一が学歴を詐称していると決め付けるつもりはないので誤解しないで欲しい。『20世紀少年白書』のプロフィールの方が間違っていると考えるほうが自然だろう。ただ、唐沢俊一は「青学→神保町」の件もそうだが、自分について語るときに虚偽が混じるので残念ながらそのまま信用することはできないのだ。もしかしたら、と思ってしまう。そこでもう一度考えてみる。『20世紀少年白書』の唐沢の話だと、青学を3年まで進んだところで父親から「後を継げ」と言われたとのことだ。で、当時イッセー尾形の前説で客を怒らせて(詳しくはまとめwikiを参照)落ち込んでいた唐沢は東北薬科大に通うことにしたとある。唐沢は『裏モノ日記』2000年1月8日と10日付けでイッセー尾形のスタッフとして働いていたことを自ら書いているが、20歳のときにイッセーの一人芝居を見て感動した、と書いてあるから時期的には符合している。なお、イッセーの思い出について書かれた『裏モノ日記』は現在アスペクトから出ている単行本でしか読むことが出来ない。なぜ?(単行本に収録されている分も唐沢のサイトで読むことは出来るのに) そして、仙台に行った唐沢は登校拒否になってしまい、ほとんど引きこもりのように1年間を過ごしたと言っている。その後の経緯について『20世紀少年白書』P.141より紹介。

唐沢 で、ある日、東京の美大に通いながら弘兼憲史先生のアシスタントをしていた弟が、自分は会社組織の水に合わないから漫画家として生きるっていうような決意表明をしにきたんですよ。で、僕も「ここにいちゃダメになる」と思って、ちょうど札幌の方で処方箋にパソコンに打ち込むシステム作りを手伝ってほしいという話があったんで、しばらく札幌に帰ったんです。
山田 薬大は辞めちゃったんですか。
唐沢 中退は親が許してくれないから、ちょっと五月病というか鬱入っちゃったから休学させてほしいと。

 しかし、唐沢俊一の話と唐沢なをきのインタビューに出てくる話はだいぶ違う。唐沢なをきが行っていたのは「美大」でなく「多摩美大の付属の専門学校」だし、唐沢弟が弘兼憲史のアシスタントをしていたのは学校を卒業した後である(『課長島耕作』は1983年1月スタート)。…弟のことまでウソを言わなくても。それに唐沢なをきのインタビューから考えると、唐沢なをきが「少年サンデー」に持ち込みを始めたのは1982年のことだが(島本和彦のデビューは1982年2月)、唐沢俊一の話だと青学3年の時(1980〜81年)に弟がマンガ家になると言い出したとあるから若干ズレが生じてしまうし、「弟が漫画家になるから薬局は継がないと言い出して」「弟が、自分は会社組織の水に合わないから漫画家として生きるっていうような決意表明をしにきた」って、唐沢なをきはどうして2度も漫画家になることを決意してるのか?だから弟のことまでウソを言うなって。いずれにしても唐沢俊一がちゃんと青学を卒業していた可能性は有り得る。青学を82年3月に卒業してそのまま4月に東北薬科大に入学し、直後に登校拒否になるというのは一応有り得る。それに「ガンダム論争」の投稿から、1981年7月には東京にいたことも確認できるし。でも、なんで「卒業した」とハッキリ言わないのか不思議だ。それに「裏モノ日記」には次のような記述もある。

朝、寝床ですでに消えて久しい社会思想社現代教養文庫の『江戸の戯作絵本』(三)を読む。昨日、と学会例会で原田実氏が山東京伝黄表紙を紹介していたので、ひさしぶりに善魂悪魂の登場する『心学早染艸』を読みたくなり、引っぱり出してきたもの。思えば仙台で引きこもり同様の学生生活を送っていたとき、ちょうど新刊書店で発売されたばかりだったこの文庫をむさぼるように読んでいた。

 『江戸の戯作絵本』三巻が発売されたのは1982年4月である。もし青学を卒業してすぐに東北薬科大に入学していたとしたら、すぐに引きこもってしまったということなんだろうか。そうだとしたら痛ましい話である。今までの話をまとめてみよう。一応、唐沢俊一が青学を卒業していたものと仮定する。


 
1980年 唐沢なをき多摩美大の付属の専門学校に入学。
1980年or81年 唐沢俊一、父親に後を継ぐように言われ、仙台の東北薬科大学へ行くことにする。(※1)
1980年12月〜1981年7月 唐沢俊一、「ぴあ」の「ガンダム論争」に参加。(※2)
1981年〜 唐沢俊一イッセー尾形の舞台を観て衝撃を受ける。長文の感想を送り、そのままスタッフになるが、前説で客を怒らせたことをきっかけにスタッフを辞める。(※3)
(1982年3月 唐沢俊一青山学院大学文学部を卒業?)
(1982年4月 唐沢俊一、東北薬科大学に入学?)
1982年〜 唐沢なをき、「少年サンデー」に何度か原稿を持ち込み、弘兼憲史のアシスタントになる。
1982年〜 唐沢俊一、仙台で引きこもり同様の学生生活を1年間送った後、札幌に帰る。


(※1 唐沢俊一は「弟が漫画家になると言い出して」と言っているが、仮にそうだとすると唐沢弟が漫画家になることを決めた時期と持ち込みを始めた時期にズレが生じるため、本当かどうか疑わしい)
(※2 「ぴあ」の投稿欄から当時の唐沢俊一の住所が東京都内だったことが確認できる)
(※3 「日経ネット」の記事で唐沢は、「ちょうど仙台の大学に通っていた頃、イッセー尾形さんのところの仕事をしていた」と語り、『20世紀少年白書』では札幌に戻った後もイッセー尾形の手伝いをしていたと語っている)

…だいぶわかってきたな。いずれちゃんとした年譜を作ろうっと。

 くりかえしになるが、自分は唐沢俊一が学歴を詐称していると言うつもりはない。5冊の本で「卒業」と書かれ、1冊の本で「中退」となっているのだから、「卒業」していると判断するのが妥当であろう唐沢俊一世界文化社にプロフィールが間違っていると連絡したほうがいいよ。

最後に『20世紀少年白書』P.146より。

唐沢 でも、今や我々の世代やオタク文化を大学とかで研究している若者までいるわけですよ。彼らの書いたものを見てみると、すごくよく調べてあるんだけど、基本となる事実関係において明らかな間違いもたくさんあるわけです。それは我々がちゃんとまとめたり伝えたりしてこなかったせいだと思うんですよ。

 「お前が言うな」という話だが、とりあえず自分の学歴からハッキリさせてほしいところだ。「青学を卒業した」って言えばいいだけなんだから、簡単でしょ?

※追記 以下の情報を踏まえて年表を訂正しました。 
唐沢俊一イッセー尾形を初めて知ったのはお笑いスター誕生を見てから(『裏モノ日記』より)。イッセーが『お笑いスター誕生』に出演していたのは1981年のことである。だから、唐沢が『裏モノ日記』で「二十歳」のときにイッセーを知ったというのは誤り。自分の年齢くらいちゃんと覚えておいてくれ
・唐沢がイッセーの舞台を初めて見たのは、渋谷ジアンジアンでの公演だが、イッセーのジアンジアン公演が定着するのは1982年から。
・唐沢が「前説事件」を起こしたのは、池袋西武の「スタジオ200」(『裏モノ日記』より)。なお、「前説事件」のあとも別にトラブルがあったらしい(『20世紀少年白書』より)。

…というわけで、『20世紀少年白書』で「イッセー尾形のスタッフで失敗して仙台に行くことにした」と語っているのは大いに疑問である。仙台に行った後もイッセーの舞台があるときだけ上京して手伝いをしていた可能性もあるし。…発言がウソだらけの人の年譜をまとめる難しさを痛感。
 

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20世紀少年白書―山田五郎同世代対談集

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トンデモ創世記 (扶桑社文庫)

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裏モノ日記

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