唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

僕のエクスカリバーも難色を示す。

 2月1日の「朝日新聞」に掲載された唐沢俊一による丹尾安典『男色の景色』(新潮社)の書評より。

 堺市の図書館にBL(ボーイズラブ)と呼ばれる少年愛小説が多数収められていることが、つい最近、問題になった。図書館にこのような書籍を置くことには賛否両論あるだろうが、たとえ否定的な意見の持ち主でも「川端康成の『伊豆の踊子』も廃棄せよ」とは、まさか言い出すまい。

 そして、純粋な少女への憧憬(しょうけい)を描いた作品としてとらえられがちな『伊豆の踊子』にも、その裏に踊り子の兄の栄吉と主人公の同性愛的な感情がサブテーマとして描かれているという。今まで思い描いてきた作品のイメージが根底からくつがえされる、という読者も多いだろう。

 堺市の図書館にボーイズラブ小説が所蔵されているのが問題になったのは、表紙や内容に過激な性描写が含まれている本を開架に置いておくと子供に悪影響があるのでは?という市民の声があったからである。ボーイズラブ同性愛をテーマにしているから問題になったわけではないので、唐沢俊一の文章は論点がズレているのだ。ちなみに、ここでの「通奏低音」の使い方はどうなんだろう(中川祥治氏のサイトの「用例11」も参照)。

 1月25日の書評では吉田広明『B級ノワール論』(作品社)を扱っているが、この書評にも少しひっかかるところがある。

“B級ノワール”とは、何と魅力的な響きを持った名称であることか。分析すれば、映画制作システムにおける2本立て興行の付け合わせの1本という意味の“B級”と、大戦を経験した時代の虚無主義が反映した犯罪スリラー作品を総称する“フィルム・ノワール”を組み合わせただけのものである。

 しかし、その言葉のかもしだすイメージは暗い映画館の中で上映される古いフィルムを凝視していた記憶を呼び起こし、映画を見るという行為の持つ、ささやかな反社会性の魅力すら見事に表現している。映画の原点を言い表した題名と言えるかもしれない。

 だが、皮肉なことに本書が成立し得たのは、暗い映画館や古いフィルムという“過去の”映画状況が完全に変化した、2000年代初頭の映画シーンのたまものである。言うまでもなく、DVDソフトの充実などによる、1940年代から50年代にかけての日本未公開作品群の、系統だった、しかも膨大な作品数の鑑賞が可能となった時代背景がこのユニークな映画論集を完成させたのである。

 一応、本書では、B級ノワールのクリエーターたちを、ジョゼフ・H・ルイス、アンソニー・マンリチャード・フライシャーの3人に代表させている。果たして彼らをB級監督としてくくっていいかには疑問も残るが、彼らの作品、及びその周辺作品に対する著者の目配りは徹底している。「今現に見られるもののすべてを見る」ことを自らに課した著者のその作業が、楽しくはありながらも、たいへんな苦労を伴ったであろうことは想像に難くない。映画評論家を生業にしていなくてよかった、と胸をなで下ろしたことも確かである。

 しかし、そのほぼ9割以上が日本未公開である作品群の詳細な紹介と分析のおかげで、われわれは、われわれが知っていると思い込んでいたアメリカ映画への認識が節穴からのぞいたような狭いものでしかなかったことを思い知らされる。ひさびさに赤鉛筆を片手に、会心の指摘に傍線を引きながら読むという知的興奮を体験した本である。

『B級ノワール論』のオビについている蓮實重彦の推薦の言葉

DVDの普及が、アメリカ映画に対する新たな視点の構築を21世紀の日本で可能にしたことを、まずは祝福したい。いまから半世紀以上も前のいわゆる「B級」映画と「フィルム・ノワール」を論じる著者の、これがはじめての著作であることにも率直な悦びを表明する。その著者が「B級ノワール」を分析するマトリックスとして、ジョゼフ・H・ルイスとアンソニー・マンリチャード・フライシャーという三人の映画作家を選びとったことにも心からの賛辞を送りたい。人々は、ハリウッド映画についてまだまだ何も知らない。そのことを知らしめただけでも、本書の価値は計り知れないと断言する。

…だいぶカブってるなあ。まあ、蓮實重彦と同じことを書いておけば大怪我をしなくて済むんだろうけど、オビと大して違いのない書評にどれくらいの意味があるのか?と思ってしまう。

 ちなみに、タイトルのモトネタはこれ

男色(なんしょく)の景色―いはねばこそあれ

男色(なんしょく)の景色―いはねばこそあれ

B級ノワール論――ハリウッド転換期の巨匠たち

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ナイトは妖しいのがお好き (角川ルビー文庫)

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