唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

打ち切られなかったからってフォっとしちゃダメ。

 『ラジオライフ』2009年1月号から、『唐沢俊一古今東西トンデモ事件簿』はお題形式に変更されている。『ラジオライフ』1月号が「カメラ」を特集しているので、それにちなんで今回の『トンデモ事件簿』は「写真」がお題になっている。そして、担当編集者も豊田拓臣さんから続木順平さんに変更になっている。詳しいことは11月10日の記事に書いてある通りで、おそらく『ラジオライフ』11月号の盗用(詳しくは10月6日の記事を参照)の影響なのだろうが、それにしてもひとつ気になることがある。ラジオライフ』の編集スタッフから豊田さんの名前が消えているのだ。…責任を取らされたということなのだろうか。もちろん、豊田さんの責任は大きいが(単行本『唐沢俊一のトンデモ事件簿』のミスの多さは目に余る)、一番悪いのは唐沢俊一なんだから、はたして編集者を変えてお題形式にしたところでガセとパクリを防げるものだろうか。まあ、『ラジオライフ』としてはパクリを防げればOKなのかもしれないが(パクリは犯罪に成り得るがガセを書いても犯罪じゃないので)。
 で、『ラジオライフ』1月号の『唐沢俊一古今東西トンデモ事件簿』第40回「写真術日本渡来裏話」だが、『ラジオライフ』編集部の苦心の甲斐もなくヒドいことになっている。今回の『トンデモ事件簿』については藤岡真さんが「机上の彷徨」11月27日で検証されているので(リンク集からご覧になってください)それの後追いである。
 まず、P.150の記述から。

 写真の歴史の中で最もアヤシゲなものといえば、一にポルノ写真、二に心霊写真であろうが、その心霊写真も写真が日本に渡ってからたった25年目の1879(明治12)年に三田弥一という横浜の写真館主によって撮影されている。

 実は三田弥一が心霊写真を撮影した前年の1878年に熊本鎮台の兵士が心霊写真を撮ったことが、井上円了『真怪』に記されているという。井上円了といえば、みなさん御存知のように妖怪研究のパイオニアである。そこから話を膨らませていくこともできたろうに(そういえばこないだ白山の東洋大学まで出かけた時に、井上円了銅像を見つけて「おばけ博士だ!」と感激したっけ。円了が東洋大学の創設者だということをうっかり忘れていたのだ)。正確に書くと、三田弥一の心霊写真は「現存する日本最古の心霊写真」なのである。実物はこれ。確かに恐いな…(どうしてこんな風になっているのかは想像がつくが)。
 その後に書かれている長尾郁子の「念写」については藤岡さんのサイトを参照して欲しいが、P.151の記述。

写真というものを我々は、真実をそのまま写すものだと思い込んでいる。しかし、その実、写真は全く真実と異なるものを写しこんでしまうものでもある。また、真実であっても、真実っぽくない写り方をすることがしょっちゅうある。

 一体何が言いたいのか。山田風太郎が『人間臨終図巻』で紹介していた晩年の武者小路実篤の文章を思い出してしまった。唐沢俊一はまだ50歳なんだからしっかりしてほしい。

 その後にある『写真の仇討』のあらすじの説明が杜撰であることも藤岡さんのサイトを参照して欲しいが、『写真の仇討』の中に出てくる趙襄子の逸話の説明も杜撰なのである。P.151より。

(前略)趙襄子は本名を趙無恤という春秋戦国時代の晋の政治家である。
 当時、晋は六卿といわれる6人の政治家が国を治めていたが、その中でも最も力のあった智伯という男が、同じ六卿のうちの魏と韓を謀って、趙襄子を攻め滅ぼすべく襲ってきた。趙襄子はピンチに陥るが、魏と韓に密使を送って彼らを裏切らせ、ついに智伯を打ち破って返り討ちにした。

 中国の戦国時代には「魏」「韓」という国があるので、唐沢の書き方はまぎらわしい。「六卿のうちの魏桓子と韓康子」と書くべきだ(ついでに書くと「を謀って」ではなく「と謀って」だろう)。もっと詳しく書くと、智伯が滅ぼされた時点で、六卿のうち范氏と中行氏は智伯に既に滅ぼされていて、智伯の死後、紀元前403年に晋は趙・魏・韓の3つの国に分裂し、春秋時代から戦国時代へと移行していくのである。あと、「本名」と書くよりは「諱」と書いた方がいい(間違いとは言えないが)。
 その後、『トンデモ事件簿』では智伯の部下であった豫譲(豫譲はもともと范氏と中行氏の家臣だったが冷遇されていたところを智伯に見出されたので智伯に深い恩を感じていた)が趙襄子をつけねらう話が書かれている。『トンデモ事件簿』本文ではやたら長ったらしく紹介されているので簡単にまとめると、趙襄子は豫譲の忠義の心に感動したが、「自分が死ぬと天下が乱れてしまうからお前に討たれることはできない。その代わりこの服を自分だと思ってせめてもの恨みを晴らせ」と言って、服を脱いで豫譲に渡した。すると豫譲は趙襄子の服を剣で貫き、そのまま咽喉を突き自害してしまった。信じられないことに、豫譲が切り裂いた趙襄子の服からは血が流れ出し、それを見た趙襄子は「人の恨みは恐ろしいものだ」と呟き、その後3年もたたないうちに死んでしまった、という話である。
 これは『写真の仇討』の中に出てくる逸話の紹介としては正しい。だが、史実とは異なるということを説明していないのはいただけない(前の文章で趙襄子について史実を書いているので豫譲についても史実を説明すべきだろう)。『史記列伝』刺客列伝(筑摩書房世界古典文学全集・福島吉彦訳)より引用。

予譲はいった、「『明主は人(臣下)の美を掩わず、而うして忠臣は名に死するの義有り』と、聞きおよんでおります。前にあなたさまはわたくしを放免してくださり、天下にあなたさまのご英明をたたえぬ者はおりませぬ。今日のでき事、わたくしはもちろん死罪をおうけいたします。しかしお願いがございます、どうかあなたさまの御上衣をいただき、これをたたき切って、仇討ちの志を示すことができますならば、死んでも遺恨には存じませぬ。とてもかなわぬ望みながら、あえて胸のうちをうちあけて申しあげます。」これを聞いて趙襄子は大いに義に感じ、臣下に上衣を持って行かせて予譲に与えた。予譲は剣をぬきはなち、三たび躍りかかって上衣に斬りつけ、「わしは地下で智伯さまにご報告申しあげられるぞ!」つづいて剣で身をつらぬき自殺した。かれが死んだ日、趙国(趙襄子の領国)の心ある人たちは伝え聞いて、みな予譲のために泣いた。

…いや、引用しながら少し感動してしまった。何この『男たちの挽歌』みたいな世界(『レッドクリフ』観に行かなきゃなあ)。もちろん、脚色もあるのかもしれないが、豫譲の呪いで趙襄子が死んだことでないことは確実である。なぜなら、智伯が滅ぼされたのは紀元前453年で趙襄子が死んだのは紀元前425年なのである。呪いにしては時間がかかりすぎである。「刺客列伝」にも

 のち七十余年たって(正確には六十二年。前四五三年)、晋に予譲の事件がおこった。

とある。なお、「刺客列伝」の脚注には

このとき趙襄子の上衣から血が流れ、趙襄子が車に乗って帰ろうとするや、車輪が一回転もせぬうちにかれは絶命した

という伝説が紹介されている。これが『写真の仇討』のモトネタになったのだろう。さらに付け加えると、「知己」という言葉は、「刺客列伝」で豫譲が言ったとされている「士は己を知る者の為に死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたちづく)る」に由来している。こういうトリビアも紹介しておこうよ、「雑学王」さん。

…『写真の仇討』のあらすじの説明も長ったらしかったのだが、その後に続く斎藤緑雨『油地獄』のあらすじの説明(本文からの引用もある)も長ったらしい。しかも問題なのは、藤岡さんも指摘されているが、どちらも「写真術日本渡来裏話」というタイトルに大して関係の無い話なのである。なんだろうか、「作家と食人」の回で村山槐多の小説を長々と紹介していたように(詳しくは10月9日の記事を参照)、マニアックな小説の紹介を長々として無理矢理テーマと関連付けるというのが『トンデモ事件簿』のスタイルなのだろうか。それに写真にまつわる奇妙な話を紹介するとしても『写真の仇討』も『油地獄』もフィクションではないか。…写真についての奇妙な実話っていくらでもあると思うけどなあ。おかしな話である。
 そして、斎藤緑雨についての説明もデタラメである。まず、これは藤岡さんも指摘されているが、P.152で

森鴎外原文ママ)などと共に明治の文壇でその才を歌われた原文ママ)、斎藤緑雨という作家の代表作とされる『油地獄』という話である。

と書いておきながら、P.153では

 文明開化の象徴である写真がまるで丑の刻参りのワラ人形のように使われる。話が単純なのではなく、ここらあたりが緑雨が明治文壇で名を成せなかった因だろう。しかし科学と迷信は、実は表裏一体である。写真技術こそ、まさにその代表であり、そこを見切っていたのが緑雨だったように思えてならない。

と書いている。…矛盾してるって、それは。それに「ここらあたり」って一体どのあたりなのかよくわからない。「思えてならない」ってのも根拠が無いから妄想に過ぎないしなあ。
 次におかしいのは、『油地獄』と良く似た話があることをスルーしていること。それは古典落語の『藁人形』である。『油地獄』は芸者に振られた学生が芸者の写真を煮えたぎる油の入った鍋に投げ込んでいるが、『藁人形』では女郎に振られた坊さんが藁人形を煮えたぎる油の入った鍋に投げ込んでいる。写真と藁人形が置き換わっただけである唐沢俊一が「文明開化の象徴である写真がまるで丑の刻参りのワラ人形のように使われる」と書いていて、そして『油地獄』を紹介する前に『写真の仇討』という落語を紹介しているにもかかわらず、『藁人形』について触れていないのはとても奇妙である。唐沢俊一って落語にも詳しいはずなんだけどね。なお、『藁人形』でどうして藁人形に釘を打たずに油の中に投げ込んでいるか気になると思うけれど、それがオチになっているので触れるのはやめておく。検索すればすぐに分かると思います。
 最後。唐沢俊一斎藤緑雨についてこのように書いている。P.153より。

(前略)しかし、女性に恋をした男の、実に正直なバカさ加減が大変ストレートに出ている作品で、当時の文壇で大変な好評を博した。作者の斎藤緑雨自身、こんな単純な小説でこんなに評価されるのは恥ずかしいと思ったのか、その後小説家としての筆をほとんど折って、毒舌で知られる評論家、エッセイストとしてのみ活躍するようになる。

 これについては、伊藤整日本文壇史』2巻「新文学の創始者たち」第9章を見てみよう。

斎藤は、春陽堂の新作小説叢書「文学世界」の第六編として「かくれんぼ」を出版し、同時に彼の籍をおいていた新聞「国会」に、五月三十日から「油地獄」という作品を連載していた。
(中略)
このうち前者の「かくれんぼ」は、やや江戸戯作派に近い文語体で、ほとんど句読点がなく、地の文と会話が区別なく書かれた古風な作品である。しかしそれは男女の愛欲の心理の縮図として素晴らしい出来であった。
(中略)
「国会」に連載した「油地獄」の方は新しい言文一致体であった。
(中略)
この小説を彼は巧妙なムラのない口語体で書いた。この小説も一種の諷刺小説であったが、写実的に細かく書かれており、現代的な小説であった。そのせいか「かくれんぼ」よりもこれの方が好評で、斎藤の代表作と見なされた。斎藤は「油地獄」をほめる人があると、冷笑を浮べて、「『かくれんぼ』の方がいいのだがね」と言った。ほとんど新しい文体のせいで流行作家になった(引用者註:山田)美妙のような作家のいたこの時代には、「かくれんぼ」の古風な文体の中に脈打っている痛烈な思想を認めるものが少なかった。

 つまり、自信のあった『かくれんぼ』より『油地獄』の方が評価されたこと小説の内容よりも文体によって評価されたことを緑雨はよく思っていなかったということなのだ。そのことは緑雨本人も『日用帳』(筑摩書房明治文学全集『斎藤緑雨集』所収)でこのように書いている。

○油地獄を言ふ者多く、かくれんぼを言ふ者少し。是れわれの小説に筆を着けんとおもひ、絶たんとおもひし雙方の始なり、終なり。

 というわけで、唐沢俊一の書き方はあまりに粗雑過ぎる。少なくとも明治の文学(言文一致運動など)に通じていないことはバレバレである。それから、緑雨は『油地獄』を発表した1891年以降も小説を発表し続けている(例えば1895年に「讀賣新聞」で『門三味線』を連載している)。それにしても、唐沢俊一は『油地獄』について「文学性などというものは感じられない」と書いているが、えーと、『血で描く』には文学性というものは…、ごめん、そんな大人げないことを言っちゃいけないよね。

 そして、本文だけでなく近況にもガセがあるんだから凄い。

東大でウルトラマンについての特別講義をしてきた。ゲストにフジ・アキコ隊員役の桜井浩子さん、光学合成の中野稔さんをお招きして、盛り上がったなあ。

 おまえは講義していないだろう!!「アンチ」に聴講者がひとりいるんだけどな、気づけよ(なお、唐沢俊一を批判する人のことを「アンチ」と呼んでいるのは唐沢俊一と2ちゃん唐沢スレを荒らしている人だけである。とても不思議なことだが)!この東大の講義については10月23日の記事を参照して欲しい。授業の担当である吉田正高先生だってこのように書いている。

明日のコンテンツ文化史講義では作品論として
ウルトラマン』を取り上げます。
ゲストとして、唐沢俊一さんにモデレーターを
お願いし、紅一点のフジ・アキコ隊員を演じた女優の
桜井浩子さん、作品に欠かせない光学撮影を担当された
中野稔さんという豪華な皆様に御登壇いただきます。
大学の講義ならではの興味深いお話を聞かせていただけると
思いますので、みなさんお楽しみに!!

 「モデレーター」でしょ?講師じゃないよね?なんで「特別講義をしてきた」ってなってるの?この有様だといずれ「東京大学特別講師」を名乗りだすね、きっと。それから「講義の後でスーツ姿のオールバックの男に『ラジオライフ』11月号での盗用について質問されて焦ってしまった。イケメンだったのでつい油断していろいろしゃべってしまった」って近況で書いてくれればいいのに(冗談)。

…結局、担当の編集を変えようとお題形式にしようと、ガセがなくなることはないようである。…というか、今回は落語と小説しか紹介してないから、もはや「事件簿」じゃないと思うんだが。『ラジオライフ』としてはこれでいいんだろうか。豊田さんをスタッフからはずしてまで唐沢俊一を守る価値はあるんだろうか。
 なお、今回の文章を書くに当たって唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板の書き込みを参考にさせていただきました。ありがとうございます。

85 名前:無名草子さん[sage] 投稿日:2008/11/28(金) 00:09:37
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/2005/01/post_4.html
日本でもっとも古い心霊写真の記録は、妖怪研究で知られる井上円了
『真怪』に記したもので明治11年1878年)の熊本鎮台の兵隊が撮った
「その場にいなかった兵隊の写った写真」というものがある。
しかし、残念ながらこの円了が見たという心霊写真は現存しない。

「たったの24年」なんじゃないの?

※gurenekoさんのご指摘に基づいて記事を一部修正しました。

井上円了・妖怪学全集〈第1巻〉

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人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)

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史記列伝〈2〉 (1975年) (岩波文庫)

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藁人形/ねぎまの殿様/馬の田楽

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