楚囚夜曲。
紀田順一郎『古書街を歩く』(新潮選書)P.50〜51より。「明治期最大の稀本」とされる北村透谷『楚囚之詩』についてのエピソード。
早稲田大学の四年生村田平次郎は、今日も古本あさりをしようと、当時本郷に会った貸席志久本亭の二階で開かれていた古書即売展へ赴いた。
それは一九三〇年(昭和五年)の三月であった。
(中略)
東京市内ではいたるところで市会や即売展が行われていた。そのうち盛んだったのが神田と本郷であり、後者は志久本亭が本拠であった。ここでは一九〇六年(明治三十九年)いらい市会が行われ、数軒の店主が主催していた。その間を縫って、一般人も入れる即売展が開かれていたのである。
村田平次郎が出かけた即売展は二日目であった。彼はあまりアテにしないような顔付きで、台の上に積まれた雑本の山を崩していたが、ふと、その視線が一冊の薄っぺらな本の上に落ちた。
『楚囚之詩』、参拾銭。
この瞬間、彼が何を考えたかは知らぬ。いや、何の想念も浮かばなかったというのが正しいであろう。あまりの感激は人を麻痺したような状態にしてしまう。
だが、おそらく彼の頭にはカーッと血がのぼったに相違ない。当然である。四十年近くにわたって市場に一冊も伝わらないとされた、最大級の幻の名著が、いま彼の手中にあった!
最初にこの学生の興奮に気づいたのは、明治文化研究の草分け石川巌(がん)であった。彼もまたこの種の古本市の常連だったが、当日は二日目とのこととて、やはりたいした期待ももっていなかったのである。ところが、何気なく会場を見まわすと、傍らの学生がパンフレットを手にして、赤くなったり青くなったりしている。その本の表題を見なければよかったのだが、人間には好奇心というものがある。彼はソッと首をのばして覗きこんだ。
次の瞬間、彼は学生の腕をとらえた。
「君ッ、それをボクに五円で譲ってくれ!たのむ、この通りだ!」
現在の本でいえば、数百円のものが一万円以上になるということで、学生にとってはいい小遣いかせぎになる筈であった。しかし、村田平次郎は愛書家であった。『楚囚之詩』の何たるかを知る愛書家であった。
彼は黙って首をふった。すでに周囲には人垣が出来て、たいへんなさわぎである。その中には、本書を出品した書店主のキョトンとした顔も見えた。
村田は取りすがる石川巌の手をふりきり、帳場に三十銭を置くと外へ駈け出した。寒い日であったが、彼の顔はほてっていた。
…いきなり何事かと思われただろうが、上のエピソードは唐沢俊一の初の長編小説である『血で描く』(メディアファクトリー)の冒頭のシーンのモトネタなのである。『血で描く』の冒頭で、主人公・茅島はデパートで開かれた古書市で沼波恭一の貸本漫画「血で描く」を落札し、古本マニアたちに「自分に譲れ」と迫られるのである(マニアたちはかなり戯画化して描かれている)。『楚囚之詩』のエピソードは割りと有名らしく、検索すればすぐに話はわかるし、藤岡真さんも「机上の彷徨」10月11日で取り上げている。それから、『楚囚之詩』を運よく入手した村田平次郎は学生時代に日夏耿之介の薫陶を受けていたらしいのだが、『血で描く』で茅島は「黒い帽子に眼鏡という、特異なスタイル」の「サブカルチャー評論家で作家のK」という特別講師に教えられて古書市に参加している。…日夏耿之介と唐沢俊一を並べるとかそういう風に考えるのはやめておいたほうがいいかな。
しかし、今回改めて思ったのだが、『血で描く』の冒頭には少しひっかかる。茅島はKから古書市の目録をもらって、その中から偶然目に留まった「血で描く」に好奇心を持ち、
値段は五〇〇〇円、とある。高いものだな、とは思ったが、手の出ない値段でもない。バイト代も入ったことだし、何より、さっき話を聞いたばかりで、貸本漫画に対する新(引用者註:茅島の名前)の好奇心は活性化していた。
「まあ、どうせ当たりっこないだろうけど、ちょっと応募してみるか」
目録の後ろには注文用の葉書がついていたが、ネットでも注文が出来る、とあった。新はバッグの中からモバイルのパソコンを取り出すと、起動させ、その場で古書市のサイトにつなぎ、『血で描く』を注文した……。
という具合に行動している(P.22)。…うーん、古本について知識も興味も大してあるわけではない茅島がこういう風にすんなり行動できるものなのかなあ、と自分は思ってしまう。むしろモトネタの『楚囚之詩』のエピソードのように、古書市の雑本の中から「血で描く」を見つける方が自然なような気がする。古本に興味が大して無くても「一度行ってみよう」と古書市まで足を運ぶことならあるかもしれないし。それに古本に興味があっても5000円の古本にはなかなか手が出ないような(「お前がケチなだけだ」と言われれば返す言葉は無いが)。まあ、「血で描く」を出品した古本屋の店主のエピソードを描くためにこういう展開にしたのだと思うけれど。そもそも、この茅島という主人公がいまいちキャラが立っていないことも『血で描く』の問題点の一つだと思う(だから最後に元凶である沼波に向かって叫ぶシーンもあまりピンとこない)。
なお、「明治期最大の稀本」として多くのマニアが入手するために奔走した『楚囚之詩』は、現在青空文庫で読むことができる。
ついでに書いておくと『血で描く』のP.15には、
漫画が古書即売会などで売れ筋商品として、急に注目されるようになったのは、七十年代の終り頃になってからである。東京・中野の漫画専門古書店『まんだらけ』の成功に刺激され、新分野の商品を開発したがっていた若い世代の古本屋たちが、自分たちが子供時代に読んでいたような漫画類を、堂々と自分たちの書店に並べるようになったためだった。
とあるが、手塚治虫『新宝島』が25万円という価格で古書展に出品されて注目を浴びたのは1976年のことらしい。前出の『古書街を歩く』でも一章を割いてこの「事件」について書いている。漫画の古本にそれだけの値段がつくというのは大変なことだったそうである。それに『新宝島』を出品した中野書店の店主のインタビュー(出品したのは先代の店主)も読むと、どうも『血で描く』で書かれているものとは事情が違うようなのだが。だいたい「まんだらけ」が開店したのは1980年だし。…もう古本の知識もダメなのかも。
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