1981年の「祭り」。
1980年11月21日発売の『ぴあ』12月5日号(当時は隔週誌)の読者投稿欄「YouとPia」に「山賀龍一」氏の「望怪獣論“本当の怪獣映画とは…”」というタイトルの文章が掲載された。
いつの時からだろう。怪獣が子供のオモチャになってしまった。キャラクター・トイの波に乗り、超合金だのビニール人形だの…。
という出だしから分かるように、怪獣映画が子供向けになってしまったことを嘆き、『ゴジラ』のように大人の鑑賞に耐える本当の怪獣映画を待ち望む文章である(だから「望怪獣論」なのである)。
この文章を読んで触発された22歳の青年が「新怪獣論」というタイトルの文章を書き『ぴあ』編集部へと投稿した。投稿された文章は「12/5号「望怪獣論」へ…本当に優れた新しい怪獣映画を!」というタイトルで『ぴあ』1981年1月2日号に掲載された。以下に全文を紹介する。
12/5号当欄、山賀氏の「望怪獣論」を読んでとりあえず一筆。
最近いろいろな所でこういった意見を耳にします。僕も小さい頃から怪獣に親しんできた人間ですから、怪獣映画復活にあえて異を唱えるものではありません。しかし、そういった意見のファンの人達と話していてどうしても一つ、ひっかかる所があるのです。どれは彼等が東宝の怪獣映画、なかんずくゴジラを、やたらあがめたてまつり、神聖化してしまっていることです。あれを越える怪獣映画を作ることは出来ない、なんてことを彼等はいうのです。本当にそうなのでしょうか。いや、あえていってしまえば、僕にはどうしてもあれがそんなに優れた映画であるとは思えないのです。
子供の頃見たゴジラ、あれは正直にいって大変コワかった。暗い夜空をバックにヌッと立っているゴジラの姿は悪魔のようなイメージとして心に焼きつきました。しかし、それはあくまでもイメージとしてであって、子供に映画としての出来云々がわかるはずもありません。それから数年たち、怪獣少年から映画少年となった僕が再びゴジラを見た時の感想は「アレ、コンナもんだったのかナ」ということでした。特撮は確かにあの頃の作品としては頑張っていたのかもしれません。しかし、映画としての完成度とすると、はっきり言ってオソマツの一言なのです。まず、改めて見てみて、ゴジラがやけに早く出て来てしまうのにガッカリしました。恐怖映画の定石としては、ここは出来るだけゴジラ本体の出現を後の方に延ばすのがスジでしょう。「JAWS」においては前半、鮫は全く姿を現わさず、海中風景→背びれ→シルエット→本体と徐々にその姿を小出しにしていって恐怖感を盛り上げていっています。「ゴジラ」にはそういった細かい神経が殆んど感じられません。しかも冒頭いい雰囲気を出していた高堂国典はじめとする島の住民が、後半全く出て来ない。ゴジラの恐ろしさを最もよく知っている彼らを中心に、離れ小島という極限状況の中で話を展開していけばこの映画、倍はコワくなっていたことと思います。しかし、ゴジラ氏は島を見捨てて東京へ出て行ってしまうのです。これはいうまでもなく、この映画がそもそも身長50メートルの化物がビルをぶち壊し、火を吹いて戦車を踏みつぶすという、お子様向けの発想からなっているためであります。もともと身長50メートルの生物というだけで考えてみれば「アホか」の一言です。ましてやそれが火を吹いてジェット機をはたきおとすに至ってはこりゃ、迫真性だのリアリズムだのの彼岸にある。ならこれは純粋なファンタジーなのかというと、原水爆問題などという現実問題をとりあげているから始末に悪い。何かそこだけ浮き上がっているような感じなのですねえ。最も理解に苦しむのは、ゴジラを原爆の申し子―その洗礼を受けた唯一の国である日本の持つ恐怖のイメージ―として設定しておきながら、それを倒すのにオキシジェン・デストロイヤーなどという新兵器を持ち出すことです。何のことはない、それでは原爆よりオソロシイものがもうこの世にあることになるじゃありませんか。この映画は原水爆の恐怖を描くのか、オキシジェン・デストロイヤーの恐怖を描くのか、首尾一貫していません。
原水爆によって生まれたゴジラならば、それが滅ぶのもやはり原水爆によってでなくてはいけないでしょう。それであって初めて、テーマが示されるのではありませんか?オコツになってしまったゴジラが、海の底で「こりゃアンフェアだ!」と叫んでいるような気がします。ズルイよ、ネタに詰まったら新兵器を持ち出すというのは。ゴジラの出現と新兵器の発明、この二つの間には何の関係もない。これだけでもこの脚本はラクダイです。
ともかく、怪獣ものの頂点といわれるゴジラにしてからがこれなのだから、その後の怪獣映画に“映画”として優れたものが絶えてないのは理の当然かもしれません。その意味で、山賀氏の「望怪獣論」に僕も賛成です。「ゴジラ」の後塵を拝することのない、本当に優れた怪獣映画を希望する次第です。ゴジラは、あの映画が作られた昭和20年代〜30年代の狭間の、社会とか国家、戦争等に対する人々の不安の象徴としてのイメージだと思います。今の時代に生きる我々には、その頃とは違う、新しい不安があります。新しい怪獣を我々は待ち望まなければならないのです。
この文章の投稿者の名前は唐沢俊一。そして、この文章をきっかけに「YouとPia」では半年以上にわたる論争が巻き起こることになるのであった…。
…というわけで「唐沢俊一検証blog」では、しばらくの間いわゆる「ガンダム論争」を扱っていきたいと思います!長すぎて一回ではとても収まらないのですw
それにしても、プロになる前の文章とはいえ、唐沢俊一は昔から唐沢俊一なんだなあと思う。ひとつには、文章が無駄に攻撃的。唐沢俊一はこの後「ある事件」がきっかけで、
これで、僕はキレた。これ以降、僕の『ぴあ』への投稿の筆致はどんどん嫌味になり、皮肉になり、攻撃的になっていく。
のだが(『あえて「ガンダム嫌い」の汚名を着て』より)、もともと「嫌味」で「皮肉」で「攻撃的」なんだから、論争が勃発したのは当然のことだったのかも知れない。
あと、見る目がないのも今と同じ(昔まともだったら別の意味で哀しいけど)。『ゴジラ』を批判するのはいいとしても、批判するポイントがみんな見当はずれだから、『ゴジラ』ファンはさぞかしイライラしたことだと思う。
まず、「ゴジラがやけに早く出て来てしまう」だが、じゃあラドンの登場が遅い『空の大怪獣ラドン』はいいのか?そんなのはストーリーの必要に応じて出せばいいだけの話であって、早いからダメというのはおかしいよ。次、ゴジラが姿を現さずに貨物船や民家を襲っているのだって恐怖映画の「定石」だろう。というか、「定石」という言葉をものを知らない人に使われると本当にイラッとするな。そして、「離れ小島という極限状況の中で話を展開していけば」って『キングコング』だってニューヨークに行ってるじゃん。さらに、ゴジラが原水爆で倒せないことは劇中で山根博士がちゃんと説明している。以下セリフを引用。
それは無理です。水爆の洗礼を受けながらも、なおかつ生命を保っているゴジラを何をもって抹殺しようというのですか
やっぱり『ゴジラ』のストーリーを理解してないな。ついでに「お子様向けの発想からなっているためであります」というのは、まだ22歳だから勉強が足りなかったと思うことにしておこうか。
…ここまで読んできて、ずっと昔に書かれたプロになる前の文章をいちいち批判するのはどうか?と思われた方も居られるかもしれない。しかし、実は唐沢俊一は今年9月に発売された『唐沢俊一のトンデモ事件簿』(三才ブックス)に収録された文章の中で、『ゴジラ』について「オキシジェン・デストロイヤーの開発には、必然性がほとんどない」という「YouとPia」への投稿と同じ論旨の批判をしているのだ(その論旨については11月6日の記事で批判済み)。この点について唐沢俊一は四半世紀考えを変えていないのである。だから、「YouとPia」への投稿を批判する意味は十分にあるものと考える。過去への批判は現在へとつながっているのだ。…しかし、こんなに『ゴジラ』を批判していた人間がどうして梶田興治監督や中野昭慶監督と個人的に付き合うようになったのかいよいよわからない。あと、細かい間違いを指摘しておくと、オキシジェン・デストロイヤーはゴジラの骨まで溶かしてしまったのでオコツになってしまったというのは誤り。それから、ゴジラは劇中でジェット機をはたき落としていない(ミサイルをはたき落とそうとはしている)。もちろん今ではちゃんと知ってるよね?一応フォローしておくと、結論だけはなんだかマトモ。
唐沢俊一は1998年に発売された『別冊宝島・投稿する人々』(宝島社)に収録された『あえて「ガンダム嫌い」の汚名を着て』で、「ガンダム論争」を振り返っているが、「YouとPia」への最初の投稿についてこのように書いている。
この号のみ大宅文庫のバックナンバーが欠落していて、詳しい引用をすることができないが、要するに、山賀氏の“今、大人の鑑賞に耐える怪獣映画を!”という意見には賛成するものの、『ゴジラ』という映画を大傑作としてあがめ、結局怪獣ファンたちが揃いも揃って、ゴジラの復活だけを望んでいるのはいかがなものか、という意見を述べたものだった。
投稿の大意を記憶を辿ってざっと書いてみると、イメージとしてはともかく、映画作品として見ると、『ゴジラ』の構成はかなり弱いことが分かる。それは、まだ日本に怪獣映画という伝統がなかったのだから無理もない。あの作品が名作とされるのは、ひとえに第五福竜丸事件によって原水爆の恐怖を、今の我々とは比べものにならないくらいに身近に感じていた当時の人々の潜在的な恐怖に、ゴジラという異形の姿が与えられたからにほかならない。
(中略)
べつに論争を望んでいたわけではなく、ただ、当時一年に四百本近くの映画を見まくっていた映画青年として、ごく当たり前の感想を述べたにすぎない文章である。実際問題として、ゴジラと同年に作られたジョージ・パル製作の『宇宙戦争』などを見ると、その演出の細かさ、人間の配置と動かし方のうまさ、特殊撮影の技術などで、日本のそれがとうてい足元にも及ばないことを、映画ファンの筆者は徹底して思い知らされていた(現在のB級カルトマニアとしての目から見ればまた別である。しかし、当時の筆者はまだ純真だったのだ)。
「ゴジラという異形の姿」うんぬんは『トンデモ事件簿』に収録された文章とよく似ている。それにしても、「YouとPia」への投稿で唐沢俊一は『ゴジラ』について「特撮は確かにあの頃の作品としては頑張っていたのかもしれません」として、あくまで「映画としての完成度」を批判しているのに、どうして『あえて「ガンダム嫌い」の汚名を着て』では『ゴジラ』の特撮を批判していたことになってるんだろう?やっぱり自分のことを記憶しておくのも「病的に苦手」なんだろうか。それに『ゴジラ』の特撮や演出が『宇宙戦争』に比べてそんなにも劣っているんだろうか?具体的に説明してほしいところだが。「YouとPia」への投稿でも『ジョーズ』より『宇宙戦争』を持ち出して批判すればよかったのに。まあ、それ以前に『宇宙戦争』が作られたのは1953年で、『ゴジラ』の前年なんだが。
あと、「映画青年として、ごく当たり前の感想を述べたにすぎない」って、当時の映画青年はみんなそんな風に思っていたのだろうか?当時幼稚園児だった自分にはわかりようもないので、1980年当時の事情をご存知の方からお話を聞きたいところだ。コメントお待ちしています。
…「望怪獣論」に対して「YouとPia」へ投稿された唐沢俊一の文章は、特撮ファンの間に波紋を広げたらしい。『ぴあ』1月30日号に唐沢俊一への反論が載り、そして、唐沢俊一の身にも「ある事件」が起きるのであった。
(つづく)
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