唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

『唐沢俊一のトンデモ事件簿』パクリ疑惑・その3。

 『唐沢俊一のトンデモ事件簿』(三才ブックス)CASE10「なぜ死刑は必要か」より。

 この時代、京の処刑場として有名になったのが“六条河原”(現在の京都市下京区)である。六条河原は、六条大路末の鴨川河原一帯を指し、当時京都の死体葬送地であった鳥辺野(ただし、すべての死体が埋葬されていたわけではなく、ただ放り出しただけの死体も多い遺棄地であった)に近接していたために、平安末期から処刑場として使用された。

 ここの文章は「平安京探偵団」の記事『駒止地蔵と六条河原』からのパクリ。

「六条河原」とは、六条大路末の鴨川河原一帯をさします。現在の五条大橋以南から正面通辺りです。「六条河原」は東国へ抜ける街道である渋谷越(苦州滅路:くずめじ)に通じていたこと、葬送地である鳥辺野に隣接していたことなどから、平安時代末期よりしばしば合戦場となり、処刑場、首級の受け渡しの場でありました。

保元の乱(1156年)では、平清盛の叔父である平忠正、その子の長盛・忠綱・政綱・通正らが斬首され、平治の乱(1159年)では、藤原信頼軍と清盛軍がここで戦い、捕らえられた信頼が斬首されている。文治3(1187)年に平宗盛・清宗親子の首もここにさらされているし、少し先回りすると、天正10(1582)年に豊臣秀吉に敗れ逃走中、小栗栖村(現在の京都市伏見区)で殺された明智光秀の死骸は、切り離された首と胴を縫い合わされて、六条河原で腹心の部下、斉藤利三と共に改めて磔になっている。

 ここの文章は前出の「平安京探偵団」と「史跡探訪」の記事『六条河原』からのパクリ。まず「平安京探偵団」。

列挙してみると、保元の乱では、清盛の叔父平忠正、その子長盛・忠綱・政綱・通正らが「六条河原」で斬首されました。平治の乱では、藤原信頼軍と清盛軍が「六条河原」で戦い、捕らえられた信頼はこの地で斬首されました。寿永3年(11894)(原文ママ)、源義仲が、源範頼義経軍に破れたのも「六条河原」。文治3年(1185)、処刑された平宗盛・清宗親子の首も「六条河原」にさらされました。

 次に「史跡探訪」。

天正十年(1582)六月、山崎の合戦で敗れた光秀は小栗栖(京都市伏見区)で農民に襲われ近臣の介錯で首を取られて、道端に埋められた。農民は光秀の首を掘り出し二日後、園城寺に進駐した秀吉の元に届けた。
光秀の右腕だった斎藤利三は、近江堅田に潜伏していたが、発見されて秀吉のもとに送られ京都六条河原で首を斬られた。
秀吉は、光秀と利三の首と胴を縫合し、磔にしている。主君信長を殺害した謀反人として処刑したことを、広く世間に知らしめるためであった。

 なお、光秀と斉藤利三については、晒し首にされたという説もあり、また晒された場所にも異説がある。

 徳川家の天下となっても六条河原は大忙しで、元和5(1619)年、2代将軍秀忠は、京の牢にいるキリシタン全員を、女子供に至るまで処刑させた。10月、河原に十字架が立てられ、13歳以下の子供10人を含む52人のキリシタンが火あぶりになった。

 これは「史跡探訪」からのパクリ。

元和五年(1619)、二代将軍秀忠は、京の牢にいるキリシタン全員を、女子供に至るまで処刑せよと命じた。十月、加茂川と伏見街道の間の六条川原で、五十二人が十字架に架けられ火刑に処せられた。このうちに十三歳以下の子供十人が含まれる。

 かくも人の命を奪った六条河原にさまよう魂を慰めるため、河原には巨大な石の地蔵尊が祀られていた。これは駒止地蔵と呼ばれ、昔、平清盛が馬に乗って六条河原にさしかかった折、馬が動かなくなったので、不思議に思いその地面を掘り起こしたところ、地蔵尊が出てきたという伝説がある。別名“首斬地蔵”と呼ばれるこの像は、現在は河原にほど近い蓮光寺京都市下京区)境内に祀られている。

 これは「平安京探偵団」からのパクリ。

「駒止地蔵」には、次のような伝説が伝えられています。

 昔、平清盛が馬に乗って六条河原にさしかかった時、馬が動かなくなったので、その場所を堀りおこしたところ、地蔵尊がでてきた。

蓮光寺下京区富小路通六条上ル)境内の地蔵堂には、「駒止地蔵」と呼ばれる大きな石の地蔵がまつられています。駒止地蔵は、もとは「六条河原」の刑場にまつられていたと伝えられています。別名「首斬地蔵」とも呼ばれています。


…つまり、京都の史跡を紹介するサイトからネタをパクってパッチワークしたわけだ。毎度のことながらわかりやすい。
 ついでにガセも指摘しておこう。

かの『源氏物語』でも、その名を冠した“六条御息所”は、光源氏につれなくされたことをうらんで生霊となり、六条にあった“河原の院”なる廃屋敷で、新しい彼女の夕顔の君と情事にふけっている源氏を襲い、夕顔の君をとり殺している。昔からそのような妖気あふれる場所であったようだ。

 光源氏と夕顔が逢い引きした場所は河原院がモデルとされているが、本文中には「某院」としか書かれていない。それから、六条御息所の生霊が夕顔を殺したという説には異説もあるとのこと。

※ 『トンデモ事件簿』のパクリ疑惑その1は10月7日、その2は10月14日をそれぞれ参照。

唐沢俊一のトンデモ事件簿

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