唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一は『宇宙戦艦ヤマト』のファンではなかった。

 唐沢俊一が『トンデモ美少年の世界』(光文社文庫)で、「自分は『宇宙戦艦ヤマト』のファンではない」という文章を書いていたという衝撃的な情報が唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板に書き込まれ、その話は「トンデモない一行知識の世界」でも紹介されていた。なぜ衝撃的なのかというと、唐沢俊一「浪人時代に『ヤマト』のファンサークルをやっていて、そこから『ヤマト』のブームに火がついた」とことあるごとに語っていて、もはや持ちネタのひとつと言ってもいいほどだからだ。だが、唐沢の『ヤマト』関連の発言にはいろいろおかしなところが多く、かねてから疑問が持たれていた。『トンデモ美少年の世界』に本当にそんな記述があったとすれば、唐沢の持ちネタの信用性はゼロとなり崩壊することになる。というわけで、実際に『トンデモ美少年の世界』をチェックしてみたら、本当に書いてあったので驚いた。P.177〜180より引用。

 ……さて、先に述べたように、いわゆるカルト・ブームが日本を席巻したのは一九七七年の映画『宇宙戦艦ヤマト』の爆発的ヒット以来だろう。それまでにも多くのファンを集めた作品はあったけれども、もともと中学生くらいの年代の男性を対象に制作されたアニメ作品に、大学生を中心にしたファン、それも女性ファンがつめかけ、スクリーンに花束を捧げたり、全国各地に主なものだけで四百を超すファンクラブが設立された、といった騒ぎが巻き起こったのはこの作品をもって嚆矢とする。
 そして、実はこのブームを起こすきっかけとなったのは、その一年ほど前から、各地方において、この作品の再放送を望む(もはや当時の状況など忘れてしまっている方が大半だろうから説明しておくと『宇宙戦艦ヤマト』という番組はその前年にテレビ放映されて、
低視聴率のため打ち切りになった)ファンたちが、草の根的に作り上げていたアニソン(アニメ番組の主題歌)のファンクラブ・研究会の類であった。このファンたちの活動に目をつけた制作者によってやがてヤマトの再放送、そして編集版の映画、さらに新作の上映へとつながっていく。
 当時僕は札幌を中心としたアニメソング研究会のサークルをまとめており、北海道ネットのラジオ局にそういったコーナーを作らせたり、古いレコードのコレクターたちに連絡をとってその音源を提供させたりしていた。札幌地区だけのアニメ映画上映会などで、常時百人以上の参加者があったろうか。ちょっと驚いたのは、そのほとんどが大学の一年生と予備校生であったことだ(僕自身予備校生だった)。
 ふつう、こういった子供向けのテレビマンガ―今では古臭い呼び方だが、当時アニメなんて言葉はめったに使われていなかった―を当然、卒業する年代と思われていた十九、二十の人間が、かくまで熱意をもってアニメとアニメソングのことを語り合えるのかと、火をつけたほうとしてもいささか呆れる思いだったことを覚えている。
 この、札幌でのブーム(有線放送でのリクエスト回数の集計によるデータ)に目をつけたレコード会社が、これがすぐ全国へ飛び火することを予見して動き出したことにより、ささきいさおの歌った『真っ赤なスカーフ』(『宇宙戦艦ヤマト』の副主題歌)がリバイバルヒットし、そこからあの空前の大ブームへとつながっていくのである。札幌という街はよく、東京などでのファッションの実験市場として設定されるが、それが最もはっきりと効果を発揮したのはこのときだろう。ヤマトブームは札幌が生んだと言われているのはこういう理由による。僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何でもなく、アレヨアレヨというまにこういう結果になってしまったことに、ただ呆然と目を見張っているばかりだった。
 それはともかく、そのとき、僕も含めて、もう選挙権のある立派なオトナたちが、酒を飲みながらああだこうだと、口角泡を飛ばして昔のアニメのことを論じ合う姿に、これはいったいどういうことなのだろう、と首をかしげずにはいられなかった。僕にしても他の連中にしても、人並みに文学も読んでいるし、政治に無関心なわけでもないのだ(そこらへん、そのあとに輩出したいわゆる“オタク族”たちとはちょっと違っていた。社会的常識もわきまえていながら、アニメのこととなると人格が変わったのだ)。われわれも、そういうことについて論じることだって十分にできたはずだ。それまでの若者、つまりわれわれの先輩たちが論じ、熱くなった話題に。だが、僕らにとって、そういう話題は結局のところ、ひとごとでしかないイメージだった。心底から最も熱くなることのできる話題はやはり、アニメや特撮ものなど、いわゆる子供向け番組の思い出に関する話だった。

 …断言しちゃってるね、「ヤマトのファンでも何でもなく」って。それでは、唐沢俊一の『ヤマト』関連の発言を逐一見ていくことにしよう。まずは『古本マニア雑学ノート』より。

そんなこんなで高校時代は過ぎていった。大学は理系を受験したが、もともと数学は大の苦手だった上に、古書店めぐりばかりしていて勉強を全然していなかったから、受かるわけもなく、一年浪人するハメになった。
 しかし、この浪人時代の一年は、その後の僕の人生を大きく変えた。それまで古書趣味のような、どちらかというと孤独な趣味に走り、友人もあまり多くなかった僕だったが、当時札幌の地下鉄の駅前にあったNという書店の伝言板に、SF・アニメ同好会の会員募集があり、そこに入会したのだ。「S・S」という会で、何やらナチスの親衛隊みたいな名称だが、これはアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のエンディング・テーマ「真っ赤なスカーフ」(SCARLETSCARF)から取ったものだった。
 ここで、僕のそれまでの古書趣味が大いに役立った。例えば、スペースオペラのことを語るにしても、当時、日本のスペオペの最大の紹介者だった野田昌宏氏の『宇宙の英雄たち』『宇宙船野郎』などという、基本的著作を読んでいる者は、同世代にはほとんどいなかった。これらはそのころすでに、出版社にも在庫がほとんどなくなっていた本だったのだ。ハヤカワSFシリーズも同様。これらを古書店で手に入れ、読んでいた僕は、新参者ではあったが、たちまちその同好会のリーダー格になった。それまで個人の趣味に過ぎなかった読書が、他人に対する力になったのだ。周りの人間や、両親にまで、“暗い”とか言われていた本への執着が、初めて、世間的な価値になることを知ったのである。当然のことながら、そこでの活動に大いにハマった。
 毎日のように仲間とツルんで書店めぐり、映画館めぐりをし、同人誌を編集し、映画のフィルムを借り出してきて上映会を行い、もう、自分が予備校生であることなど忘れて、ファン活動に熱中した。こういうものに熱中する年齢だったのだろう。もちろん古書店通いも続けていたが、買うのはやはりSF一辺倒になりつつあった。僕の短くもない古書遍歴のうちで、おそらく唯一、本の収集の系統を定めていた時期だったのではないか、と思う。
(中略) 
 さきほども名前の出たアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のブームは、実はここから火がついた、と言っていい。あの作品は、最初TV放映されたとき、視聴率がふるわず、放映期間を短縮されたものだった。ところが、その再放送の嘆願書が各地方のTV局に殺到し、後に日本中を席巻するヤマト・ブームを巻き起こしたのであるが、その、そもそもの発端はこの札幌のN書店の伝言板コーナーだったと言っていい。

次に『トンデモ創世記2000』より。

忘れもしない、七七年頃だから大学一年の頃、札幌で『宇宙戦艦ヤマト』のファンクラブを運営していたんですよ。その前に高校生の頃「スター・ウォーズ」のファンクラブを作ろうとしたんですよ。まだ日本に「スター・ウォーズ」が来る前に、ファンクラブを作って日本で最初の公認を取ろうとしたんですよ。実は、「ペリー・ローダン」で取っているんですよ、公認を。会員があんまり活動してくれなかったので終わったんだけど。「SFマガジン」に広告出して、ドイツの「ペリー・ローダン」の出版元まで許可を取って、一応、僕は事務局長をやってたんです。で、「ペリー・ローダン」は地味だから、これからは「スター・ウォーズ」で公認を取ろうとしたら、大阪の方かどこかで先に取られちゃったんだよね。その「スター・ウォーズ」ファンクラブで作った会誌をジョージ・ルーカスのところに送ったら、「勝手に作るな、五百万円払え」って言われてた。あーとかった、最初に作らなくってという(笑)。
そういう活動が忙しくて、わざと一浪したんですよ。ファンクラブ作って一年で僕等が卒業してしまうと、札幌の活動は壊滅状態になるということで。“わざと”というと恰好いいけど、それにかまけて大学受験の勉強をしなかったんですよね。で、一年間の浪人時代に札幌にプロデューサーの西崎義展さんを呼んだりした。まだ「宇宙戦艦ヤマト」の映画版を作る前ですね。

次に「zipper」2008年10月号より。

高校2年のころアニメの『宇宙戦艦ヤマト』が放送されたんですが、初期で打ち切られてしまった。だけどすごく面白かったから、「『ヤマト』をブームにしよう!」と思ったんですよ。北海道の片隅で。
(中略)で、最初にやったのが、仲間たちと全員で『ヤマト』のレコードを1軒の店だけで買うんです。そうすると、全国でもその店でだけバーンと売り上げが上がる。それとアニメの再放送の嘆願書を出したり、ラジオへのリクエストハガキも出しまくった。その結果、『ヤマト』の関係者が「北海道で『ヤマト』を盛り上げている子たちに会いたい!」って来てくれて。

 以上の発言については9月1日9月2日の記事を参照して欲しい。さらに、「マイコミジャーナル」の『雑学王 - 唐沢俊一の素』というインタビューより(ちなみにインタビュアーは唐沢が主宰する「文筆業サバイバル塾」の受講生)。

――『宇宙戦艦ヤマト』についてうかがえますか?

「僕の人生が変わった瞬間っていうのが何回かあって、それが『ウルトラQ』と出会ったときであり、『宇宙戦艦ヤマト』と出会ったときであり……」

――『ヤマト』の場合は、大学に進学して上京なさる前、地元の北海道でファン活動をなさってらしたんですよね。『ウルトラQ』と『宇宙戦艦ヤマト』とでは、どこに違いがあったんでしょう?

「『ウルトラQ』も『ウルトラマン』も観てればいいんだな、と。ずっと高視聴率を獲っていたから。ところが『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率が振るわなかった」

――裏番組が、『アルプスの少女ハイジ』と『猿の軍団』だったんですよね。

「あの当時、これだけ質の高いSF作品が、まだ世の中には受け入れられないというので、危機感を持ったんですよね。これは、我々が積極的にサポートする声を上げなくては、と」

――具体的にどんなことをなさったんでしょう?

「まず、署名運動をして、再放送嘆願の便りをみんなに書かせては、50通、100通まとめて地方局に送る」

――それで、実際に何度も再放送されたわけですね。

「地方都市ならではだと思うんですけれども、50通、100通程度でも局が動いてくれるわけですよ。で、後から聞いたら、その再放送で得た収入が『ヤマト』劇場版製作の資金として役立ったそうですね」

――ほかには、どんなことを……。

「レコードなんかも、みんなで同じ店で買う。すると、その売り上げがいいというデータが中央に伝わって、それを聞きつけたテレビ局の人とか制作会社の人がやって来る」

――その中に『ヤマト』のプロデューサーの西崎義展さんもいらしたわけですね。それが、高校を卒業なさるくらいの時期……。

「僕は、『ヤマト』のファン活動をするために、わざと1年浪人したんですよ(笑)。北海道に残りたくて」

――ええっ?

「それまで東京の文系の大学に行くための勉強をしてたのに、突然親に『北大の理系を受ける』と言って。すると、親は喜ぶじゃないですか。ウチが薬局だから、継いでくれるのかと思って。でも、そんなの受かるわけがない(笑)」

――それ、『刑事コロンボ』だったら、犯人の手口ですよね(笑)。

「(笑)」

――SFファンだった唐沢さんと『宇宙戦艦ヤマト』のファン活動とは、どうつながるんでしょう?

「昔ながらのSFファンジンを作っていて、創作をやり、SFを研究するみたいな団体がずっとあったわけですよ。これが超正統派で、そこから派生して、だんだんゆるいグループができたり、さらに造反組のグループができたり」

――なぜ、造反しなくちゃいけなかったんでしょうか?

「そこで、今の"やおい"の元祖みたいなことをやったりしたんですよ。『風と木の詩』みたいに、『科学忍者隊ガッチャマン』のキャラクターを使ってホモっぽい漫画を描いてみるとか」

――はい。

「ところがそれは、それまでのSF同人誌ではとてもできなかった。そんなことをやると怒られた。『不真面目だ』って。その造反組のほうに僕は肩入れしたわけですね」

――もうそのころから、バリのほうへ……(笑)。

「そうそう。バリっていうのは先鋭なんだと」

――なるほど。きわきわのところだから、おもしろいわけですね。

「さっき言った、草創期が好きって、それなんですよ」

…こうして並べてみるといろいろおかしいことに気づく。まず、時期が曖昧である。『ヤマト』の本放送は唐沢が高校1年のときなのだが、「zipper」のインタビューでは「高校2年のころ」放送されたと言っている。…じゃあ、再放送でハマったってことなんだろうか。『ヤマト』は本放送の時からSFファンの間で話題になっていたというから、唐沢がハマったのはむしろ遅いほうなのではないか。ファンサークルの活動の時期は「予備校生」「浪人時代」でほぼ一致しているが(『トンデモ創世記2000』では「大学一年」「浪人時代」と自分で言いながら混乱している)、「高校2年のころ」ハマったのなら2年間何をしていたのか不思議である。「危機感を持った」のならもっと早く動かなきゃダメだろう。あと、大学を浪人した理由も『トンデモ創世記2000』と「マイコミジャーナル」では「わざと1年浪人した」となっているが、『古本マニア雑学ノート』では「勉強を全然していなかったから」と違っている。…「わざと」というのはどうもハッタリくさいな。本当に「わざと」落ちたのだとしたら、判断ミスだったと思う。なぜなら、東京に1年でも早く出てきておけば、マニアとしてのスキルは段違いに伸びていたに決まっているからだ。おのずと将来の道も大きく変わっていたと思う。他人の過去について「あのときああしておけばよかったんだ」と言うことはあまりいいことではないと思うが(自分だって誰にだって後悔していることはあるのだから)、「わざと」だなんてカッコをつけているのを見ると反省した方がいいと思ったのであえて言ってみた。それにしても、自分の過去を覚えるのも「病的に苦手」なんだなあ
 それに『トンデモ創世記2000』での発言に従うと、唐沢は『ペリー・ローダン』→『スター・ウォーズ』→『ヤマト』の順でファンサークルを作ろうとしたと言っているが、『スター・ウォーズ』が全米で公開されて日本でも評判になったのは1977年のことなので、『ヤマト』映画版の公開と同じ年である。…じゃあ、いつ西崎義展を札幌に呼んだんだ?やはり無理があるように思う。なお、唐沢は当時の「SFマガジン」に『ペリー・ローダン』ファンクラブの広告を出したと言っているが、そのような広告は見当たらないとのこと。こっちの話もあやしい。さらに言うと、「『ヤマト』の人気は札幌から火がついた」と言っているのは唐沢俊一だけで、その発言にはまったく根拠がない。唐沢が所属していたファンサークルが活動を始めたのは、数多くある『ヤマト』のファンサークルの中でも取り立てて早いほうではないのだから、どうして「札幌から火がついた」と思い込めるのかよくわからない
 ただ、これらの文章や発言をいくつも読んでいると、『トンデモ美少年の世界』で明確に否定されるまでもなく、唐沢俊一が『ヤマト』を好きではないというのはわかってしまう。だって、『ヤマト』の内容についてちっとも触れられていないし、唐沢俊一が『ヤマト』について熱く語っていたという記憶も無い。それどころか、ヤマトのデザインが「女性的」などと見当違いのことを言う始末だ(詳しくは10月25日の記事を参照。)「好きでもない作品のファン活動に打ち込んだ」話を何度も嬉々として語るのってどういうことなんだろう。「オタク」ですらないんじゃないか?
 あと、『トンデモ美少年の世界』には問題のあるところがある。「僕も含めて、もう選挙権のある立派なオトナたちが、酒を飲みながらああだこうだと」って、一浪の人はまだ成人してないだろう。酒を飲んじゃいけません。それに大勢の女性ファンがついて、ファンクラブが設立されたアニメ作品として、『ヤマト』以前に『海のトリトン』があるだろう。氷川竜介氏もこのように書いている

放映後もトリトンのことを語り続けたいという動きが、若者たちによるアニメファンクラブ結成となり、その動きがやがて70年代後半にヤマト・ガンダムを通じてアニメブームへとつながっていく。

 実は「検証blog」の中の人は、『トリトン』や『ヤマト』が放送された当時まだ生まれていない。そんな自分が知っていることを「オタク第一世代」を自認する唐沢俊一が知らないって一体どういうことなんだ。ただし、『トンデモ美少年の世界』所収の「ショタコン・アニメ史」では『トリトン』について触れているので、要するに作品を褒めるときに「嚆矢とする」と言っておけばいいと思い込んでいるんじゃないかと思ってしまうのだが。しかも、知識もないくせに“オタク族”のことをバカにしているのだから開いた口が塞がらない。盗作して謝罪することもできない人間が「社会的常識もわきまえていながら」とは笑わせてくれる。知識はもうしょうがないから、せめて常識だけは身につけて欲しいところだが。

 結論としては、「唐沢俊一は『宇宙戦艦ヤマト』のファンではない」「唐沢俊一が所属していたファンサークルが『ヤマト』ブームの火をつけたという事実はない」ということである。このことはよく覚えておいて欲しい。唐沢には、イギリスの話と同様に(10月27日の記事を参照)二度と『ヤマト』の話をするな、と言ってやりたいところだが、個人的には他の「オタク第一世代」と対談して『ヤマト』の知識がないことがバレたら面白いなーと思う。というか、「と学会」で『ヤマト』の話題になった時に唐沢はどうやってごまかしているんだろうか。「と学会」の人たちってみんな『ヤマト』に詳しそうだからなあ。しかし、何故「自分が『ヤマト』ブームに火をつけた」とかすぐにバレる嘘をつくんだろう。「みんなその気でいればいい」というわけにはいかないと思うのだけど。

130 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 10:09:36
『トンデモ美少年の世界』1997年10月20日初版1刷
P175〜「カルトに走る子供たち」
 さて、先に述べたように、いわゆるカルト・ブームが日本を席巻したのは一九七七年の
映画『宇宙戦艦ヤマト』の爆発的ヒット以来だろう。それまでにも多くのファンを集めた
作品はあったけれども、もともと中学生くらいの年代の男性を対象に制作されたアニメ作
品に、大学生を中心にしたファン、それも女性ファンがつめかけ、スクリーンに花束を捧
げたり、全国各地に主なものだけで四百を超すファンクラブが設立された、といった騒ぎ
が巻き起こったのはこの作品をもって嚆矢とする。
 そして、実はこのブームを起こすきっかけとなったのは、その一年ほど前から、各地方
において、この作品の再放送を望む(もはや当時の状況など忘れてしまっている方が大半
だろうから説明しておくと『宇宙戦艦ヤマト』という番組はその前年にテレビ放映されて、
低視聴率のため打ち切りになった)ファンたちが、草の根的に作り上げていたアニソン
(アニメ番組の主題歌)のファンクラブ・研究会の類であった。このファンたちの活動に
目をつけた制作者によってやがてヤマトの再放送、そして編集版の映画、さらに新作の上
映へとつながっていく。
 当時僕は札幌を中心としたアニメソング研究会のサークルをまとめており、北海道ネッ
トのラジオ局にそういったコーナーを造らせたり、古いレコードのコレクターたちに連絡
をとってその音源を提供させたりしていた。札幌地区だけのアニメ映画上映会などで、常
時百人以上の参加者があったろうか。ちょっと驚いたのは、そのほとんどが大学の一年生
と予備校生であったことだ(僕自身予備校生だった)。


131 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 10:10:26
『トンデモ美少年の世界』1997年10月20日初版1刷
P175〜「カルトに走る子供たち」(続き)
 ふつう、こういった子供向けのテレビマンガ──今では古臭い呼び方だが、当時アニメ
なんて言葉はめったに使われていなかった──を当然、卒業する年代と思われていた十九、
二十の人間が、かくまで熱意をもってアニメとアニメソングのことを語り合えるのかと、
火をつけたほうとしてもいささか呆れる思いだったことを覚えている。
 この、札幌でのブーム(有線放送でのリクエスト回数の集計によるデータ)に目をつけ
たレコード会社が、これがすぐ全国へ飛び火することを予見して動き出したことにより、
ささきいさおの歌った『真っ赤なスカーフ』(『宇宙戦艦ヤマト』の副主題歌)がリバイ
バルヒットし、そこからあの空前の大ブームへとつながっていくのである。札幌という街
はよく、東京などでのファッションの実験市場として設定されるが、それが最もはっきり
と効果を発揮したのはこのときだろう。ヤマトブームは札幌が生んだと言われているのは
こういう理由による。僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何
でもなく、アレヨアレヨというまにこういう結果になってしまったことに、ただ呆然と目
を見張っているばかりだった。




どこから手をつけていいのか不明なぐらいに、ツボが多い文章ですが....
ここで重要なのは
>僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何でもなく
ですかね?

132 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 10:15:28
この10年ぐらいは盛んに「ヤマトのファンクラブを作って、再放送の嘆願書を」と
自慢しまくっていますが、1997年の段階では
「宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ」を作ったという話はなく
ただアニメの曲で盛り上がるサークルをやっていて
その中でヤマトが盛り上がって(相変わらず)札幌から火がついた
という事になっていたみたいですね。

ここに来て「ヤマトファンクラブを運営していた」という話そのものが
ガセ、妄想という事が判明しちゃいました。


133 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 10:20:03
1977年に編集版ヤマトが上映されているのに
その1年ほど前からファンが盛り上がっていて、
それがブームのきっかけになったハズなのに
(僕自身予備校生だった)って
唐沢が予備校生だったのは1977年のハズなんだが

もう自分史での時間歪みが止まらない……

138 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 11:10:05
ヤマトのファンでもない
というのは衝撃的展開だよなぁ

そう考えると、これまでヤマトについて深く語った事がないのも納得。


139 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 11:12:21
「ヤマトブームは札幌が生んだと言われているのは」
だから、どこで誰が言ったんだよ。その言葉。
本気で言ったのなら、今すぐWikipediaにその項目を書き足せ!


176 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 17:33:13
本日の収穫は
>>131
>僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何でもなく

唐沢の自慢話の土台が壊れちゃったね
「宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ」ってどこに行った?


207 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/23(木) 22:32:09
>>130-131
やはり時間が前後していて、よく解らない話になっている。
唐沢はどう考えても再放送を見てヤマトにのめり込んだという話だったのに
今回の文章では、のめり込みもしていない。
とすると、それまで散々書かれていた
「スターウォーズ」ファンクラブを断念して「ヤマト」ファンクラブを作った
という話がもともと無く、たまたまアニメソングの同好会をやっていたら
その中でヤマトが盛り上がってしまって...という事?

しかも
>当時アニメなんて言葉はめったに使われていなかった
という、知らないと思ってそこまで適当に書くか?状態。

この唐沢の逸話を信じるのなら
予備校生時代にアニソンのイベントを開催して、それで100人以上を集めて大盛上がり
その札幌でのブームをレコード会社が知り「これは全国へ飛び火するぞ」と動き
それによって、ささきいさおの「真っ赤なスカーフ」がリバイバルヒット
そのヒットから宇宙戦艦ヤマトの空前のブームに繋がっていく

「ヤマトブームは札幌が生んだと言われているのはこういう理由による。」

1977年に予備校生だった唐沢が、1976年末から始まったヤマトブームを仕掛けたと。


254 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/24(金) 01:08:12
私、東京と言っても目黒区くんだりに住んでた厨房だったけど
1977年のヤマトのラジオドラマ放送の頃には
既にヤマト&アニメブームが盛り上がっていて
声優やアニソン歌手がアイドルみたいに人気があった。
唐沢の住んでた島では流行の波が違ったんじゃないの?


267 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/24(金) 06:23:18
「トンデモ美少年の世界」確か持ってたなぁと思い開いてみたら、

>僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何でもなく

うわー、書いてあるよ思いっきり。何でこんな重要なとこ読み飛ばしてしまったかなぁ。
自分の読書への姿勢が揺らぐね。
上記と比べたら小ネタだけど、それに続く文章の書き出しが、

>そのとき、僕も含めて、もう選挙権もある立派なオトナたちが、
>酒を飲みながらああだこうだと

って、お前さっき自分で予備校生だって言ってたじゃないかよ!
ほんの十数行でまた時空の裂け目ですよ。
俺の知ってる北海道とは違うホッカイドー出身なんじゃないか唐沢は。


359 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/25(土) 15:58:08
ヤマトに別段興味なかった というのもバレちゃったしねぇ(自己申告で)


480 名前:無名草子さん 投稿日:2008/10/26(日) 23:39:56
唐沢は新ネタが毎日ザクザク出てきて凄いな。
この一週間だけでも数え切れないほど
その中でも一番のヒットは

>僕自身は、アニメソングへの興味はあったがヤマトのファンでも何でもなく、

ヤマトが途中で打ち切られたことにより「ファンクラブ」を結成し
宇宙戦艦ヤマトが再放送されるように嘆願書を出して
その結果、宇宙戦艦ヤマトの再評価が起こり、大ブームを巻き起こした
そのブームが無ければ、現在のアニメ立国の姿も無かったのである。

と繰り返し繰り返し、ディテールを微調整しながら自慢げに語ってきた唐沢。
それが実際には「ヤマトのファンでも何でもなかった」そして
「ヤマトのファンクラブ」なんて作っていなかったと。

「スターウォーズのファンクラブを作ろうとしたが、先をこされたのでヤマトを...」
ってなんだったの?
それ以前の「ペリーローダン公認ファンクラブ」の話は、もうしなくなっちゃったし。


唐沢さん、この唐沢さんが座っていた椅子って、ぜんぶ妄想だったの?

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