唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一『血で描く』を読んでみた。

注意!!この記事は、唐沢俊一『血で描く』の内容についてネタバレを含んでいます。



 唐沢俊一の初の長編小説である『血で描く』(メディアファクトリー)を読んでみた。以前、唐沢の書いた短編小説『幽霊のいるぼくの部屋』(『怪奇トリビア』収録)を読んでいろんな意味でガッカリしたことがあるので、読むのがちょっと怖かった(詳しくは7月11日の記事を参照)。
 『血で描く』のあらすじについて、Amazonの内容紹介を引用しておく。

呪いの貸本漫画との死斗!唐沢俊一、初の小説本!!
と学会での活動やトリビアで人気の、唐沢俊一による初の小説。著者が造詣の深い貸本漫画の世界を舞台にした、レトロかつ斬新な怪奇小説(+α)です。
学生・茅島は古書市で一冊の古い漫画を落札した。タイトルは『血で描く』。マニア垂涎の希少本である。だが彼のもとを訪れた白髪の男がいう。その本の持ち主は、かならず行方不明になるか、悲惨な死に方をする、と。誰にも認められず、世を恨んだ漫画家・沼波恭一が、自らの血をインクにまぜて描いた、呪いの貸本漫画だというのだ! 茅島は疑念を抱くが、周囲で続々と犠牲者が出始めた……。

 『血で描く』は、昭和三十六年六月十七日、吐霧書房の編集者・西島が沼波恭一の家を訪れるところから始まる。「靴ひもを解くのももどかしく」(P.5)、「紐どめを解くのももどかしく」(P.6)と続けて書いているあたり、西島はよほど焦っていたのだろうと推察される。家の中には沼波の姿は無く、「血で描く」というタイトルのマンガの原稿だけが残されていた。
 舞台は現代へと移る。大学の講義で貸本漫画に興味を持った大学生・茅島新は、新宿のデパートで行われる古書市に出品される「血で描く」という貸本漫画の抽選に応募する。・・・この講義の特別講師が「サブカルチャー評論家で作家のKという男」で「黒い帽子に眼鏡という、特異なスタイル」をしているという。つまり、唐沢俊一自身のことだ。目立ちたがりですね古書市を訪れた茅島はビギナーズラックでクジに当たり、『血で描く』を落札する。しかし、「血で描く」を狙っていた古書マニア・久留間に襲われてしまうが「血で描く」を出品した古本店の店主・古城佳織に助けられる。
 女流怪奇漫画家・姫井戸晃子は久留間を使って、「血で描く」を茅島から奪おうとする。自宅に忍び込んだ久留間から茅島は「血で描く」を奪い返そうとするが、返り討ちに遭い、危ないところを茅島を訪ねてきた大学教授・芦名浩太郎に救われる。
 芦名は「血で描く」は呪われた本であり、一冊残らず処分しなければならないと茅島に告げる。・・・ということは、芦名はあらすじにある「彼のもとを訪れた白髪の男」ということになるんだろうけど、芦名の外見はこのように描写されている。「肩に触れるほど伸ばした長髪に、初老の男性のように、白髪がひとすじ混じって流れている。」(P.58)・・・白髪じゃないじゃん。芦名の話にはヘンなところがある。「……あの本は、正式なルートに乗って世に出た本じゃない。昭和三十五年に、一度印刷されて貸本屋に配本されかけて、直後に回収になったんだ」(P.62)。しかし、西島が「血で描く」の原稿を読んだのが「昭和三十六年六月十七日」なのに、どうして昭和三十五年に印刷されるんだろう。それから、芦名はガセも言っている。「……君は『暗い日曜日』というシャンソンを知っているかい」(P.67)と言っているが、暗い日曜日』はシャンソンではない。その後で「第二次大戦前のハンガリーで作られた歌」と書いているのに間違えているところを見ると、どうもシャンソンのこと自体をわかっていないのだろう(詳しくは7月12日の記事を参照)。
 芦名は事情を聞くため佳織を訪ねる。佳織は父・賢次郎から「血で描く」を焼却するよう頼まれていたが、父の遺品を焼くのがしのびなくて、古書市に出品したという。・・・唐沢俊一スレッド@2ちゃんねる一般書籍板で話題になっていた「どうして出品者は呪われないんだ?」という謎はこれで解けた。佳織は『血で描く』を読んでいないのだ。でも、佳織は父親の日記を読んで沼波がマトモじゃないことを知っていたのだが。マトモじゃない作家の本を出品するのはどうかと思う。芦名は佳織から賢次郎の日記を読ませてもらう。そこには昭和三十五年から三十六年にかけての様子が事細かに書かれていたのだが・・・、どうもそれがヘンなのである。だって、安保闘争浅沼稲次郎暗殺について何も書かれていないのだ。賢次郎は政治に興味が無い人だったんだろうか。それに4月10日封切りの『電送人間』を7月20日に観ているのもどうか。まあ、二番館で観たのかもしれないが。池波正太郎直木賞受賞とか「アカシアの雨がやむとき」とか当時の流行を出してはいるが、どうにも浅いという印象。少なくとも小林信彦には見せられない
 芦名は賢次郎の日記から、沼波が妻・初枝を亡くしたことで絶望し、血の混じったインクで「血で描く」を描いたことを知る。そして、初枝が茅島の恋人・笹森たまかに瓜二つであることに気づく。急いで茅島に電話をするが、時既に遅く、たまかは久留間におびきだされ捕らわれてしまっていた。・・・そういえば、「携帯電話のベルが鳴った」(P.102)というのは少しヘンだな。というか、沼波がいつ初枝とたまかがそっくりだということに気づいたかよくわからない。
 沼波は「血で描く」を血の混じったインクで描いたことで、自分の存在を本の中へと封じ込めたのであった。そして、「血で描く」を読んだ人間は本の中へと引きずり込まれてしまう。沼波に操られた久留間はたまかを縛りつけ無理矢理「血で描く」を読ませる。たまかがもう少しで本と同化しそうになったところで、茅島と芦名に連れられた警官が久留間の家へと踏み込んでくる。追い詰められた久留間は自分から「血で描く」の世界へと入り込み、たまかを本の中へと引きずり込んでしまう。
 警察は危険物として「血で描く」の単行本を押収していってしまった。たまかを救う手立てを失い絶望する茅島の前に佳織が現れ、二人は「血で描く」のオリジナルの原稿がある場所を知る吐霧書房の元社長・笠松を訪ねる。笠松は「血で描く」の原稿を読んでもすぐには本の中へ引きずり込まれることは無く、「血で描く」が印刷され、単行本が市場に出回らせるまでは生かされていたという。笠松は「血で描く」から逃れるために、本と同化した下半身を切り捨てなんとか生き延びたのだが、どうやって切り捨てたのかわからないし、切り捨てて生き延びられるものなのかどうかわからない(毒やウイルスみたいなものなのか?)。 
 オリジナル原稿を手に入れた茅島と佳織はたまかを救うため、原稿を読み本の中へと入る。ここで唐沢の小説はいったん終り、河井克夫のマンガになる。つまり、「血で描く」の中の世界はマンガで表現されているのだ。奇妙な風景の中、先に本の中へと引きずり込まれていた姫井戸に襲われながらも、二人はたまかのもとへとたどりつく。・・・さて、ここがある意味この本の最大の見所である。たまかは同化しないで本の中へ引きずり込まれたため、マンガのキャラクターに変化せず人間のままなのだが、たまかのモデルとして、唐沢が贔屓にしている麻衣夢の写真が使われているのだ。うーん、なんというか、唐沢俊一って実はガハハ親父なのかも。おぐりゆかといい、気に入った女の子をとことんプッシュするのね。
 しかし、ここで沼波が現れ、たまかをこの世界へ同化させるよう二人に迫る。佳織は隙をついて沼波を燃やそうとするが、「血で描く」のすべてを操る沼波は火を操り逆に佳織を燃やしてしまう。茅島は、たまかを同化させたいならたまかを外の世界へ戻し、沼波も外の世界へ出るしかないと沼波を挑発する。逆上した沼波はたまかを外の世界へと放り出し、自らも外へと出る。ここから再び唐沢の小説になる。茅島と佳織の身を案じて駆けつけた芦名の目の前に突然たまかが原稿の中から飛び出してきたかと思うと、「血で描く」のオリジナル原稿が人型に変形し襲い掛かってきた。芦名は「血で描く」めがけて旧式のパソコンのモニターを投げつけ、壊れたモニターから火花が散り、「血で描く」は瞬く間に燃え上がった。・・・どうも簡単に燃えすぎるような気が。
 ここから再び河井克夫のマンガになる。燃え上がる「血で描く」の中に取り残された茅島の耳に芦名の声が届く。…現実の世界で叫んだらマンガの中に聞こえるんだろうか?気にするだけ野暮かもしれないが。…この世の全てを憎む沼波に対して茅島は叫ぶ。「違う違う!!/お前はただ現実のせいにするだけで何もしてなかったじゃないか!/自分の描いたものの中に閉じこもるだけで何ひとつ現実に自分を合わせようとしなかったじゃないか/こんなゆがんだ狭い世界で神になろうとしただけのちっぽけな人間なんだお前はぁーッ」…個人的にこの部分はものすごくひっかかった。現実世界での作家のあり方と作品とは関係ないだろう。現実では生活破綻者でしかなかった大作家はいくらでもいる。というか「うつし世は夢 よるの夢こそまこと」という言葉を知らないのか。それに沼波は病気の妻を救うために奔走しているのだから、「何ひとつ現実に自分を合わせようとしなかった」とは言えないだろう。…この後、また唐沢の小説に戻って物語は終わる。


 ・・・『血で描く』は、一言で言えば「B級ホラー」なんだろう。個人的には「B級ホラー」は好きだし、小説とマンガが一緒になっているようなトリッキーな仕掛けも嫌いではない。しかし、ストーリーがどうもヘボいのだ。一番気になるのは、沼波は現実世界の人間をすべて「血で描く」の世界に取り込むことを目論んでいるが(だから、笠松もしばらく生かしておいた)、だったらどうしてさっさと「血で描く」をネット上にアップロードしないのだろう。アクセスしてきた人間をみんなあっという間に取り込めるからとても効率がいいと思うのだが(しかも、一度アップしてしまえばデータを完全に消去することは非常に困難である)。…きっと、沼波の手先になった久留間はネットに疎かったんだろうね。茅島はネットから古書市の抽選に参加しているところを見ると、ネットにもそこそこ詳しいだろうから、こっちを先に取り込めればよかったのに。沼波としては残念な話だ。そういえば、Amazonのあらすじには、「周囲で続々と犠牲者が出始めた」ってあるけど、これはちょっとオーバーだな。「B級」というのはストーリーのワキの甘さを楽しむという面があることは否定できない。しかし、それはいい加減な話が許されるということとは違う。『血で描く』はストーリーといい、先に挙げた昭和三十五年の考証といい、やるべきことをやっていないと思うのだ。仕事の甘さを「B級だから」と逃げることを許してはいけない。ストーリーに大して関係ない古書市の描写や姫井戸のキャラクターをやたら書き込んでいるあたり、素直に古本マニアの話にすればよかったと思われてならない。それから、全体的に文章がカタい。大学生が「ええいままよ」と言うか?結論としては、もっとがんばりましょうというところだろうか。
 唐沢俊一がふたたび小説を書くとすれば私小説をやったほうがいいと思う。想像力で勝負するタイプでもなさそうだし(穏便な言い方)。上にも書いた古本マニアの話とか、コネを維持するために毎晩飲み歩く業界人の話とか、かつての弟子を誹謗中傷する人の話とか、盗作常習犯の話とか。…なんだ、いくらでもネタはあるじゃないか!次回作楽しみだなあ。

追記 あとで気づいたが、古城賢次郎の日記の中で安保闘争について書いたとも受け取れる箇所があった。
「5月1日 メーデー。街中にデモあふれる。俺のような弱小貸本出版社の社員には関係ないこと。」(P.93)
 しかし、これは安保闘争と関係がある記述だとしても逆効果でしかない。まず、この書き方だと、メーデーという「恒例の行事」だとしか考えられないため、安保闘争の下で行われたデモだとはわからない。それに、安保闘争が盛り上がりを見せたのは、政治に関心を持たない人間も闘争に参加したからであって、「弱小貸本出版社の社員」のような弱い立場の人間こそデモに参加しそうなものだと思う。まあ、古城賢次郎が心の底から政治に関心を持っていなかったのならしょうがないが(唐沢俊一も政治オンチだし)、「政治の季節」の雰囲気を描写すれば日記の記述にもリアリティーが増したと思うのだが。というよりは、唐沢はレトロなものにこだわるけど、当時の空気を再現することには興味がないんだろうか?と思ってしまった。

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