唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

メメンタモリ(タモリの弔辞を聞いて死を想え)。

 唐沢俊一2008年8月7日の「裏モノ日記」赤塚不二夫の葬式でタモリが弔辞を読んだことについてこんなことを書いている。

彼らのつきあいのバカぶりのエピソードはわれわれのようなタモリ直撃世代なら山のように聞いて、読んで知っている。「お笑いの人間なら弔辞でもバカをやれ」という意見もあるようだが、きっと、二人はもう、30年の付き合いで一生分のバカをやり尽くしてしまったのだろう。その末の、赤塚のようには人生を結局投げられない常識人・森田一義の、最後の感謝の気持があの文章。ここは素直に感動して受け取りたい。

 この文章を読む限り、唐沢が赤塚不二夫が「人生を投げていた」と考えているように読み取れる。赤塚が漫画家にとどまらない、破天荒とも言える活動を繰り広げていたことはよく知られているが(そのためにアルコール中毒になってしまったとも)、しかしそういうことをもって「人生を投げていた」とは言わないはずだ。ためしにgoo辞書を引いてみよう。

な・げる 2 【投げる】
(動ガ下一)[文]ガ下二 な・ぐ
(1)物を手に持って遠くへ飛ばす。ほうる。
「ボールを―・げる」
(2)相撲や柔道で、「投げ」の技をする。
「土俵の外に―・げる」
(3)自分の身体を、ほうり出す。
「身を―・げる」「五体を地に―・げ/平家 10」
(4)離れた地点にまで届かせる。
「光を―・げる」「話題を―・げる」
(5)本気で立ち向かうことを途中でやめる。
「勝負を―・げる」
(6)囲碁・将棋で、対局の途中で勝算のないことが明らかになり、自分の負けを認めて勝負をやめる。
[慣用] 匙(さじ)を―・手袋を―/賽(さい)は投げられた

 「人生を投げる」の「投げる」は(5)の意味だ。赤塚不二夫の場合はあまりに本気すぎて自分を追い詰めてしまったのだから、むしろ「人生を投げる」の逆だろう(たとえば、里中満智子と呉智英のコメントからもそのように思われる)。いや、それ以前に誰かに対して「人生を投げている」とか言うの失礼すぎるだろう。盗作事件以降の唐沢俊一の仕事の劣化ぶりはまことに目を覆いたくなるものだが、それで「唐沢は人生を投げた」と言ってもいいのだろうか(まあ、一生懸命にやってあの結果だったとしたら、それはそれでツラいものがあるが)。しかしタモリ直撃世代」って本当に存在するのか。「オタク第一世代」とか、いちいち世代を作るのが好きな人だ(と言うより、自分を特別な存在だと考えたいのだろうけど)。

 唐沢俊一という人はどうも死者に対して敬意を払うことが出来ないのではないか?という気がしてならない。赤塚不二夫もそうだが、他にも妙なことを言っているのだ。
『裏モノの神様』(幻冬舎文庫)P.122〜123

「人あれば餌(え)あり」という言葉がある。人にはそれぞれ見合った餌の量が
ある、という意味らしい。 人にはそれぞれ見合った餌の量がある、という意味らしい。いくら腹が減ったからと言ってバケツに10杯の飯は喰えない。人間が一度に食べられる食事の量は、どんな空腹のときでも、平素の食事量と、大した差はない。それだから、人間の社会生活は成り立っている。月給20万円の人間は、天が月20万円の生活で足りるように、その人間の方を作っているのである。自分が月40万円の生活にふさわしいように変わらなければ、収入がそれに見合って上がったりはしないものだ。
 ところが、われわれのようなフリーの職業は、自分が変わらないうちに、収入の方がボコボコ変わることがあるから困る。特にマンガ家はこの収入の変動が著しい。どうみても、せいぜい月に30万〜40万円の人間的価値しかない者が、数百万円の収入を得たりする。こうなると、収入と人格のあいだで軋みが生じ、結果、グズグズと人格の方が崩壊するのである。
  hideやねこぢるがそうだったとは言わない。しかし、ねこぢるの訃報を数人の同業者に伝えたとき、皆が口々に言ったのが「仕事しすぎたんじゃないのかなあ」という言葉だった。手塚・石ノ森クラスの売れっ子時代の忙しさを見れば、ねこぢるの忙しさなんざ、と思うが、彼女にとっては、マンガは余技くらいにして、インドあたりを放浪しているのが自分に似合っている、と思っていたのでは、と想像できる。
 バブル時期に自分の餌の適量を心得ないで、オカシクなってしまった人物を
いっぱいみている。hideやねこぢるの死は悲劇だが、自分の餌の適量を越えた時点で、今度のことのレールは既に敷かれていたのではないだろうか。

 実はこの文章は成立していない。なぜなら「人あれば餌あり」という言葉は存在しないのだ(詳しくは「トンデモない一行知識の世界」を参照)。存在しない言葉について語っている時点でもはや虚しい文章だが、内容もヒドいものだ。要するに、hideやねこぢるは自分に見合わない収入を得たから自殺したというのだから。いったん「hideやねこぢるがそうだったとは言わない」と否定しておきながら「自分の餌の適量を越えた時点で、今度のことのレールは既に敷かれていたのではないだろうか。」とふたたび貶めているあたり唐沢の正気を疑う。hideやねこぢるの真の価値が唐沢にはわかるのだろうか。おまけにねこぢるの心中を勝手に想像しているし。唐沢の現在の月収は10万円らしいが(7月29日の記事を参照)、唐沢の人間的価値は10万円もあるかどうか疑わしいのではないか。それから『裏モノの神様』P.122ではこんなことも書かれているが、

神―むしろ、とりあげるマスコミの方がどこかにトンデモない部分がないかと目を光らせていたな。連続性に注目していた雑誌記事まであった。『完全自殺マニュアル』の鶴見済覚醒剤所持でタイホされた、というのを皮切りに、その本の中に載っていた方法を使ってhideが死に、そしてまた同じ方法でねこぢるが死ぬ、という具合につながるのは、何か意味があるのではないか、という風な。
唐沢―そんな風に思われると死んだねこぢるも浮かばれないんじゃないですかね。彼女は彼女なりに悩み苦しんで死んだのに、横溝正史の呪われた連続事件みたいに言われては。

 それを言うならまず村崎百郎を注意すべきだろう。『社会派くんがゆく!』で、首吊り自殺があるたびに「hideの後追いかよ!」と言っているんだから。

裏モノの神様 (幻冬舎文庫)

裏モノの神様 (幻冬舎文庫)