唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

どれーもこれも適当な発言ばかりだ。

 『創』9・10月号掲載の唐沢俊一岡田斗司夫の対談『オタク論!』第10回「日本貴族奴隷党に一票!(前)」は、いつにも増してよくわからない内容になっている。簡単に要約すると、今の社会のあり方では勝ち組と負け組が必然的に発生してしまうから、「農奴という階層を認めて、貴族と奴隷という二大階層の社会」(貴族奴隷社会)について考えてみるべきなんじゃないか?というものなのだが、いかんせん二人とも思いつきだけで話をしているものだから、ヒドいことになっている。
 まずは、瑣末な間違いから指摘しておく。唐沢俊一はこんなことを言っているが、

昔から「テレスコープ現象」といって、遠くの悪いことはすごくよく見えるんだけれども、身近なところにある貧困とか助けを求めている人間というのは見えない、これは、慈善家の特徴なんです。「テレスコープ慈善家」という言葉は19世紀からあるんですよね。

 「テレスコープ現象」って「ピュア信仰」みたいに勝手な言葉を作られても困る(「ピュア信仰」については『トンデモない一行知識』を参照)。唐沢が言いたいのは、「望遠鏡的博愛」(telescopic philanthropy)のことだろう。ディケンズの小説『荒涼館』に登場する表現だ。というか、唐沢俊一自身も『荒涼館』を読んでるんだから、ちゃんと覚えておこうよ(裏モノ日記)。
あと、「慈善家の特徴は」と慈善家がみんな身近の貧しい人のことなんか気にしていないと決め付けているのはおかしいということは小学生にでもわかるだろう。それから、これも唐沢俊一の発言。

ただね、例えばアレクサンドル・デュマのような黒人奴隷の子がね、ルイ・フィリップ国王の庇護のもと、フランスで大ベストセラー作家になるわけですよね。これは同時代のアメリカでは絶対不可能でした。

 デュマは黒人奴隷の子ではない。デュマの父であるデュマ将軍の母親(つまりデュマの祖母)が黒人奴隷なのである。これに続いて唐沢はこう言っている。

小熊英二が言ってますが、平等を原則とする市民社会は“均質”を要求されるので、人種とか宗教とかが異なる人々は排除されてしまう。身分の差ということさえ我慢すれば、王制の方が多様性に寛容なんですよ。

 ぶっちゃけた話、ただの妄言である。まず、「均質化」が問題とされることが多いのは、市民社会ではなく国民国家においてではないだろうか(小熊英二は『単一民族神話の起源』で「均質な国民国家志向」をテーマとして取り上げているし)。「身分の差ということさえ我慢すれば」って、身分の差というのは唐沢たちが問題にしている経済の格差以上に重大な問題だろう。「人種とか宗教とかが異なる人々は排除されてしまう」って世界中に数多くある市民社会では異なる人種や宗教がそれなりに共存できているように思うのだが。むしろ、市民社会として未熟だからこそ人種や宗教を差別することが多いのではないか?「王制の方が多様性に寛容」って、ローマ帝国江戸幕府キリスト教を迫害しているんだが(まあ、どっちも「王制」ではないが)。十字軍や宗教戦争は王制の下で起こったのではないだろうか。東洋だと「三武一宗の法難」というのもあるしね。それにヨーロッパの王制のもとではユダヤ人は差別されていなかったのだろうか。個人的には、オタクや鬼畜といった存在はかつてのヨーロッパのような王制の下では真っ先に差別されると思うのだが。結局のところ、市民社会にどっぷり浸りながら「昔って面白そう」と言ってるだけなのである。それは唐沢の別の発言を見てもわかる。

我々市民社会の人からみると、中世というのは長く続いた暗黒時代であり、迷信と奴隷制というものがすべてを支配すると言われてきた。しかし最近の研究では、中世社会というものは実に祭儀的な明るさというものを持っていて、それなりに長期に安定した社会だったと言われているんです。「時々戦争をする」ということで刺激もありましたし(笑)

 たしかに中世=暗黒時代と単純に考えるのは短絡的であろう。しかし、中世に明るさがあったとしても、それには必ず暗さがつきまとっていたことも忘れてはならない。唐沢がそんなことを考えていないということは「「時々戦争をする」ということで刺激もありましたし(笑)」と軽々しく言っていることで分かる。それに「祭儀的な明るさ」とは一体何のことなのか。まさかサバトのことか?(「ハレとケ」とか言いたかったのではないかと思うが…)
 『オタク論!』で唐沢の相方をしている岡田斗司夫について、当ブログはさほど関心を持っていない(もっとも、岡田の発言も思いつきと付け焼刃の知識のせいでかなりヒドいものである)。ただ、岡田という人はかなり「貴族」が好きなのではないか?とは思っている。単行本『オタク論!』(創出版)P.246〜247ではこんなことを言っているのだ。

「と学会」という集団はインテリの貴族主義の集まりですよね。本というものを疑おうという、とてつもなく高度なことをしているわけですから。
「と学会」は成立してから10年以上経つんですが、若い人が入ってこないんですよね。40代が中心です。入りにくいというのもあるだろうけど、何よりも若い人には無理なんだと思うんです。本を読んで面白いものを見つけて、会員の前で発表して、というのは「と学会」のもっている日常的なシステムだけど、若い人は自分が持っている一ネタだけはできるけど、ずっと恒常的に集めて発表するという知的なスタミナは誰も持っていない。年齢差イコール教養差、知的な体力差になってしまっている。
IT革命が進んだことによって、バカを大量に生んで、知的ピラミッドがもう崩れちゃったわけですよね。

 つまり、「と学会」に所属する自分は貴族なのだと言いたいのだろうか。身内である唐沢俊一の盗作事件を無視した集団に貴族らしい高貴さを感じるのは正直難しいのだけれども。 
 まあ、この対談はまだ前編なのであって、後編ではきちんとした話をするはずなのだろう。50歳にもなった人たちがこんな話をしていると、唐沢と岡田がいつもバカにしている「若い人」も困ってしまうよ。

オタク論!

オタク論!

荒涼館〈1〉 (ちくま文庫)

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単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

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