唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

血液ガッタガタ。話もガッタガタ。

 『anan』№1622は、「最新版血液型スーパーBOOK」という特集を組んでいるが、その中の「血液文化人類学/古今東西・血の文化講座<入門編>」を唐沢俊一が担当している。だが、例によっておかしな箇所がいくつかある。

まず最初に。

日本には多くの妖怪やもののけが存在しますが、実は人の生き血を吸うものはいません。唯一、山の中で木こりを誘い込み、脳天を割って血をすする土蜘蛛の話があるくらい。

 確かに日本の妖怪の中で血を吸うものは少ないように思う。しかし、「磯女」がいるではないか。海辺を通りかかる者の血を吸い取って海の中に引きずり込んでしまうという妖怪である。「血を吸う妖怪」としては、土蜘蛛よりもメジャーな気もするのだが…。「唯一」だなんてわざわざ書かなければよかったのに

次。

「血気盛ん」「血の気が多い」など、日本には血にまつわるいろいろな慣用句がありますが、これらはほとんど中国から伝来したもの。

 なぜ「血にまつわるいろいろな慣用句」から、わざわざ上の2つを選んだのだろう。「血気」も「血の気」も同じ意味ではないかgoo辞書から引用。

ちのけ 0 【血の気】
(1)血の通っているようす。血色(けつしよく)。
「―が失せる」「―のない顔」「―が戻る」
(2)物事に激しやすい気質。興奮しやすい心意気。血気(けつき)。
「―の多い若者」

 これでは「血(の)気にまつわる慣用句」の例にはなっても、「血にまつわる慣用句」の例としては適切ではない。大陸から伝来した血にまつわる慣用句ならば、他にもたとえば「血で血を洗う」(「以血濯血」。出典は『新唐書源休伝』)というのがあるのだから、「血気」以外の「血」にまつわる慣用句を紹介したほうがよかったのではないか。文章に説得力を持たせることにもう少し心を配ったほうがいいと思う。なお、血にまつわる慣用句として、「血は水よりも濃い」というのがあるが、これは西洋から伝来したもの(“Blood is thicker than water.”)。まあ、唐沢は妖怪のときと違って「ほとんど」と書いているから間違いとは言えないがw
 上の唐沢の文章はこのように続く。

中国の医学では、血は気とともに人の体の中を流れるエネルギーのひとつと捉えられています。例えば、血の気は多ければいいわけではなく、エネルギーが一か所にとどまって溜まりすぎても人間の体に不調をきたすと考えられています。似たような言葉で、「血眼」は目にエネルギーが集まりすぎている様子をいいます。このように日本には血を穢れとする一方で、血=エネルギーという捉え方も昔から混在しているのです。

 「血気盛ん」や「血の気が多い」と「血眼」が似たような言葉だろうか?と思うし、文章のつながりが若干ぎこちない(「似たような言葉で」が出てくるのが唐突)。それに「血眼」というのは「血走った眼」のことを見たまま表現しているのであって、「血(の)気」や血がエネルギーであるかどうかはあまり関係ないような気がする。結局、血をエネルギーと捉える考え方が中国から伝わってきたという話を強引にしようとしたために文章に無理が生じたということなんだろうか。

最後。

古代人は血こそが生命や心の本体で、体はその入れ物と考えていた。でも日本では血=死、すなわち穢れと結びつきます。神道では、生理中の女性が鳥居をくぐることを禁じました。この違いは、牧畜文化の有無によると考えられます。食料は神によってもたらされるものと信じられていた古代、牧畜が盛んな地域では血は聖なるものとされた一方、家畜を食べない日本では、血を神聖視する信仰が根づかなかったわけです。

 日本において血=穢れとする考え方が生まれ定着した事については、血盆経という中国で編まれた仏教の経典が大きく影響していると言われる。また、『古事記』では月経は不浄なものとして扱われていない。したがって、血=穢れとする考え方が日本独自のものであるとすること、また、日本に牧畜文化がなかったために血=穢れのイメージが生まれたということは難しいと言わざるを得ない。血=穢れとする考え方は大陸から伝来した宗教・思想(仏教や陰陽道など)の影響によって定着したものと思われる。