唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

そんなに手塚治虫が嫌いなのか。

 唐沢俊一手塚治虫を嫌っていることは良く知られている…のだろうか。なぜ嫌うようになったかというと、唐沢が学生時代に『ぴあ』の投稿欄で『機動戦士ガンダム』を批判したことから論争が起こり、それに対して手塚が唐沢を咎めるコメントを寄せたからであろうと思われる(まとめwiki参照)。それ以来、唐沢は手塚をことあるごとに批判したり難癖をつけている。もちろん、「漫画の神様」と呼ばれる手塚でも批判されるべきところはあるだろう。しかし、唐沢の手塚批判はどうもヘンなのだ。以下に一例を示す。

唐沢俊一『B級学【マンガ編】』(海拓舎)P.35〜38
手塚治虫が日和ったことで、マンガ界はパワーを失った」という章より。長いが引用する。

手塚さんの『ぼくはマンガ家』という自叙伝がありますが、そこにはいかに自分が識者と呼ばれている人間にいじめられたかということが繰り返し繰り返し書いてあります。また、確かに『ロストワールド』などでは植物人間の女の子が食べられてしまったり、最後に彗星の上に取り残された男女が半裸で抱き合っていたり、というエログロを、これは手塚さん自身が言ってますが、売るために、大衆のニーズに応えてやっていた。それで目のカタキにされたんですが、あの人は実はかなり執念深い人なんですね(笑)。かなり長いこと、対談やなんかでも折に触れて、
「僕はあのときあのように悪口を言われた。あのようにいじめられた」
ということを繰り返していて、それを見るたびに本当にしつこいおっさんだなと思ったんですが、それだけつまりは恨みが深かったんでしょうなあ。
手塚さんはその後、マンガ界のオピニオンリーダーとしてビッグネームになっていく、また日本の文化人としてあちこちにその名前が記載されるようになっていくのですが、この初期いじめ体験から、これは大衆のニーズにあまり密着していると、マンガの中心が貸本から雑誌連載へと、表舞台へ移行していく状況の中で、マンガそのものが文化としてつぶされる、という危機感を抱いたのではないか。
ですからその後、『火の鳥』や『アトム大使』などで非常に穏健なというか、良識あるマンガを手塚さんは描き始めます。これはある意味において日和ったわけですね。
あまりに自分をいじめる人たちが露骨にそのような敵意をむき出しにしてくるために、その人たちの方を向いて、その人たちに少なくとも手塚のマンガはそのような質の低い劣悪なものではないということを示そうとした。まあ、マンガ家には珍しくいいとこの坊っちゃんであった手塚さんには、そういうお上品な世界もちゃんと描ける力量があったから出来たんでしょうが……。
これはなにも自分ひとりの保身のためでなくて、自分がマンガ界を率いてトップに立っているという自覚が手塚さんにはあったからだと思います。
大阪から東京へ出てきて、月刊誌などでマンガを描き始めたあたりでそのような自覚が芽生えてきた。そして、マンガ界のトップである自分が、今ここでそのような良識派につぶされてしまうと、せっかく貸本時代から月刊誌時代、週刊誌時代を迎えてこれから黄金期に向かおうとしているマンガ文化自体が死んでしまうかもしれない。
そのために手塚さんはあえて自分が本来持っていた、赤本、貸本マンガ的なエログロナンセンス的なものに対する嗜好(これは『リボンの騎士』や『バンパイア』などを読めば、通奏低音のようにそのような嗜好が流れているのがわかります)裏に隠して、むしろ子どもたちの情操教育や文化的なテーマを持った文学に近いマンガを描き始めた。
にもかかわらず、手塚さんがそのように描いたために後のマンガを描く人々、後に出てくる新人たちは、手塚さんがあのようなものを描いている、これがマンガの本来あるべき姿なのだというふうに勘違いしてしまった。
その勘違いが今のマンガ文化の隆盛につながっているという非常に皮肉な結果になっているわけですが、本来、マンガというものは文化からは切り離された大衆の興味本位な娯楽として、見世物として機能していた。これは、これが正しい姿だとかマンガはこうあるべきだとか、良識あるマンガはうそっぱちだと言っているのではなくて、現在のマンガというものが、その出自を無視した、ちょっとひねくれた成長の過程を経てしまった……このことを指摘しているのです。

 この文章は、1998年11月の東大駒場祭での講演が元になっているらしいが、それにしてもあまりにも雑な話である。
 まず、『ロストワールド』の説明がおかしい。唐沢が言うように「植物人間の女の子が食べられてしまったり、最後に彗星の上に取り残された男女が半裸で抱き合っていたり」というシーンは確かにあるのだが、別にエログロではない。女の子が食べられるところは直接は描写されていないし(ちなみに女の子を食べるのはアセチレン・ランプである)、「男女が半裸で抱き合っていたり」するシーンのセリフはこうである。以下は『ロストワールド』(角川文庫)P.227より。

「地球はもう遠い遠い新世界になった/ぼくたちはいまからママンゴ星の人間として新しい生活を始めようじゃないか」
「ね/ぼくたち兄妹になろう」
「あたしを妹にしてくださいますの……うれしいわ」

 これって感動的なシーンであってもエロいシーンじゃないだろう。なんでもエロく解釈しようとするのは中学生のすることである。それにママンゴ星は彗星じゃないし。そもそも、唐沢がヘンなのは、描写の問題である「エログロ」とテーマの問題である「良識あるマンガ」を分けて考えているところだ。だから実は「良識あるマンガ」でも「エログロ」は有り得るのだ。唐沢が「良識あるマンガ」として挙げている『火の鳥』でも「エログロ」はあると思うのだが(手塚の作品を良識的だと思って、手に取ってみて驚いた人は少なくないはずである)。ちなみに、ここでの「通奏低音」の使い方はアヤしいみたい(詳しくはここを参照)。唐沢はバロック音楽を聴いてるのかなw
 次に、手塚が識者相手に「良識あるマンガ」を描こうとしたという唐沢の主張は、はなはだ疑わしいものである。唐沢が挙げている『ぼくはマンガ家』で手塚はこのように言っている。以下『ぼくはマンガ家』(角川文庫)P.191より。

それを思うと、昭和三十年当時は、まったく厳しかった。あわてふためいて、いわゆる「良心的漫画」を描こうとし、子供からそっぽをむかれて、消えてしまった仲間がずいぶんいる。

 というわけである。それに、手塚は識者やPTAに批判される以前から『ファウスト』や『罪と罰』をマンガ化していたことを考えると、手塚が「文学に近いマンガ」を描いたことをもって「日和った」とは言えないだろう。
 そして、「現在のマンガというものが、その出自を無視した、ちょっとひねくれた成長の過程を経てしまった」と唐沢は言うが、日本のマンガの発展はサブカルチャーが洗練され成熟していく典型的な過程そのものなのではないか。唐沢は『アジアンコミックパラダイス』(ベストセラーズ)でもアジアのマンガを持ち上げて日本のマンガをクサす論法をとっていたが(それを夏目房之介に注意されていた)、結局のところ、洗練され成熟した文化を受け入れない唐沢の方がひねくれていると言うべきである
 それにしても、全体的に時代の捉え方がめちゃくちゃである。「マンガの中心が貸本から雑誌連載へと、表舞台へ移行していく状況」「貸本時代から月刊誌時代、週刊誌時代を迎えてこれから黄金期に向かおうとしている」とか一体いつの時点で手塚が「日和った」のかわからない。仮にも「B級学」と学問を標榜しているのだから、もう少し綿密に話してもらわないと困る。
 唐沢の文章を読んでいて一番に感じたのは、手塚を批判しているくせに手塚の力を過大視していることである。現在のマンガのありかたに影響を与えたマンガ家は手塚以外にもたくさんいるのであって、ハッキリ言って、なんでもかんでも手塚のせいにするのはマンガをよく知らない人間のすることである。10年前ならこの程度の話でも通用したのかも知れないが…。それに手塚のことを「執念深い」「しつこい」って言うけれど、プロになる前にあったことにいまだにこだわっている唐沢だって十分にしつこくて執念深いのではないだろうか。

B級学 マンガ編

B級学 マンガ編

ロストワールド (角川文庫)

ロストワールド (角川文庫)

ぼくはマンガ家 (角川文庫)

ぼくはマンガ家 (角川文庫)